2011年7月3日 / 最終更新日時 : 2023年9月9日 kento 幕末・維新 戊辰戦争に福岡藩出兵 (1868~1869年) 1867年10月24日、将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月9日に朝廷は王政復古の大号令を発します。 翌年1月3日にはついに鳥羽伏見で薩摩軍と旧幕府軍の間で発砲が起こり、1年と5ヶ月に及ぶ戊辰戦争が始まります。 新政 […]
2011年7月3日 / 最終更新日時 : 2023年9月10日 kento 戦国 博多町割り (1587年) 1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)などの戦いにより、荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を […]
2011年7月2日 / 最終更新日時 : 2023年6月20日 kento 幕末・維新 乙丑の獄 (1865年) 1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、筑前・平尾山荘に逃れていた高杉晋作は同年12月に下関へ戻り挙兵、翌1月には幕府へ恭順を示す保守派を倒し、幕府への対決姿勢を明らかにします。 これに神経を尖らせた幕 […]
2011年6月26日 / 最終更新日時 : 2023年8月27日 kento 古墳・弥生 熊襲の抵抗 (300年代) 歴史上実在が認められている初めての天皇は崇神天皇ですが、その崇神天皇は倭国を中央集権化するため、「四道将軍」を発し倭国統一を目指します。これが西暦200年代後半の事だと思われます。「四道将軍」の四道とは北陸道、東海道、山 […]
2011年6月26日 / 最終更新日時 : 2023年6月12日 kento 平安 平清盛「袖の湊」を築く (1158年~1170年代) 正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降のことだと思われます。 この任命 […]
2011年6月19日 / 最終更新日時 : 2023年8月30日 kento 平安 「刀伊」(女真族)の入寇 (1019年) 1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。そして糸島東部から早良郡、能古島を荒らし、次に箱崎を攻撃します。 大宰権帥(だざいごんのそつ-大宰府長官-)の藤原隆家は警固所 […]
2011年6月18日 / 最終更新日時 : 2023年8月30日 kento 平安 藤原純友の乱 (941年) 四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に本拠地の伊予を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、 […]
2011年6月18日 / 最終更新日時 : 2023年8月30日 kento 平安 新羅海賊の入寇 (869年) 平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。このような混 […]
2011年6月18日 / 最終更新日時 : 2023年9月2日 kento 古墳・弥生 三国動乱の朝鮮へ (300年代~600年代) 倭国は、西暦300年代に三国時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ進出し伽耶に駐屯します。そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。 この経緯とその後を年表で表記します。 […]
2011年6月18日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 福岡史伝 観世音寺建立 (661年) 斉明天皇は百済復興支援のため入った九州で突然崩御します。中大兄皇子はこの母のために大野山の麓に大規模寺院を創建することを決めますが、これが85年の歳月をかけて完成する「観世音寺」です。 斉明天皇は重祚(二度以上、天皇の地 […]
2011年6月12日 / 最終更新日時 : 2023年8月27日 kento 古墳・弥生 磐井の乱 (527年~528年) 継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反発」などが理由とされ […]
2011年6月9日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 奈良 藤原広嗣の乱 (740年) 天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに没すると、皇族の橘諸兄(たちばなのもろえ)が政権を握ります。 藤原四兄弟の三男宇合(うまかい)の息子、藤原広嗣(ひろつぐ)は […]
2011年6月5日 / 最終更新日時 : 2023年9月2日 kento 古墳・弥生 三国志に奴国の戸数記載 (200年代) 「三国志」の魏書の巻、東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に邪馬台国への道のりが記載されていますが、その間の国々の事が簡単に記載されています。それによると各国の戸数は次のとおりになっています。 地名 戸数 想定人口 備 考 […]
2011年6月4日 / 最終更新日時 : 2023年6月20日 kento 幕末・維新 五卿の大宰府入り (1865年) 会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島に集結させます。 これに長州藩は恭順の意を表し、三家老を切腹させ五卿を他藩に送るという条件に従いますが、この五卿を引き受けた […]
2011年5月20日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 奈良 鑑真和上来日 (753年) 日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で渡航の失敗・中止を繰り返します。そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世 […]
2011年5月18日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 奈良 戒壇院建立 (761年) 753年、渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下 […]
2011年5月14日 / 最終更新日時 : 2023年6月12日 kento 福岡史伝 文永の役 (1274年) 1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、唐津と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。その数、兵3万、軍船900といわれています。 19日には糸島半島東部の今津に姿を現し、一部の […]
2011年5月14日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 福岡史伝 白村江の戦い (663年) 倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 これに応えた中大兄 […]
2011年5月8日 / 最終更新日時 : 2023年6月15日 kento 南北朝・室町 筑後川の戦い (1359年) 「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「関ヶ原の戦い」、「川 […]
2011年5月8日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 福岡史伝 大宰府、水城、大野城を築く (663年~665年) 「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、664年九州の行政機関「官家」(那津)の機能を造営中の「観世音寺」の西側に移し「大宰府」とします。そして敵の侵攻を食い止めるため前面(博多湾側)に […]
2011年4月29日 / 最終更新日時 : 2023年6月13日 kento 南北朝・室町 多々良浜の戦い (1336年) 1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受け […]
2011年4月29日 / 最終更新日時 : 2023年9月2日 kento 江戸 金印発見 (1784年) 福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます […]
2011年2月12日 / 最終更新日時 : 2024年5月26日 kento 平安 菅原道真大宰府配流 (901年) 大宰府に配流された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600mほど離れた謫居(たっきょ)に入ります。 子供はまだ幼い隈麿と紅姫でした。謫居での生活は想像が及ばないほどの過酷なもので、道真 […]