奴国の中心地に比定される「須玖岡本遺跡(すくおかもといせき)」

わかっていない事って考えれば考えるほど面白い!! 福岡の歴史に遠くも近くも関連する「わかっていない事」を列記してみました。興味のある方はぜひ謎解きに挑戦してみてください。


「漢委奴国王」の読み方は?

-「倭」は「委」から生まれた新漢字?- 金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王 [...]


親魏倭王印はどこにある?

-もう一つの金印が発見されれば!!- 西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志 [...]


邪馬台国はどこ?

-魏志倭人伝の謎- 皆さんよくご存知の「三国志」には、「魏書」(曹操の起てた国の史書)という巻がありその中の「東夷伝」のまたその中の「倭人の条」に、邪馬台国までの道筋が記載されています。この「倭人の条」のことを日本では一般的に「魏志倭人伝」と呼び、昔から邪馬台国の所在地論争の元 [...]


卑弥呼は誰?

-百襲媛(ももそひめ)は鬼道につかえる?- 「魏志倭人伝」には卑弥呼に関して次のような記述があります。   「 ~前略~ 一女子を立てて王となす。名を卑弥呼という。鬼道に事(つか)え、よく衆を惑わす。この年長大なるも、夫婿なく、男弟あり佐けて國を治む。王となりて以来、 [...]


狗奴国は「熊野」?「球磨」?

-卑弥呼に属せずの「狗奴国」- 狗奴国(くなこく)は直接、福岡に関係ありませんが、「狗奴国=熊襲」の場合は間接的に関係してきます。 魏志倭人伝に記載される邪馬台国の敵国「狗奴国」は、熊野国(和歌山県)、球磨国(熊本県)、出雲、美濃地方の豪族など諸説あります。 以下、魏志倭人伝の [...]


神功皇后伝説は伝説?

-朝鮮半島への進出- 仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。 仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるの [...]


宇美町は不彌国?

-「日本書紀」の宇美町の地名由来- 「邪馬台国はどこ?」でも書いたように「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが、「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という事を断定できない理由は宇美町に港がない [...]


近江毛野の役職は?

-「磐井の乱」の近江毛野は将軍それとも使者?- 527年、継体天皇の意を受けた近江毛野(おうみのけな)は新羅と戦うため兵6万を率い任那に向かいますが、途中の九州で国造の磐井が乱を起こしこれを阻みます。 日本書紀の継体記によると行く手を塞いだ磐井は近江毛野に「お前は今は使者として [...]


煬帝の返書の行方は?

-小野妹子、返書の提出できず!- 中国の南北朝の時代の混乱が終わりを告げ、隋が中国をほぼ統一すると大和朝廷は遣隋使を派遣します。 遣隋使の船は出発時も帰還の際も那の大津(博多より2㎞ほど西方)を寄港地としていたようです。 607年、第二回遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書 [...]


「隋書」の秦王国はどこ?

-筑紫の東にあった中華風な国とは?- 隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。 百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅( [...]


「朝倉橘広庭宮」はどこ?

-斉明天皇崩御の地- 中大兄皇子の母、斉明天皇は百済救援のため661年3月九州に入り「磐瀬行宮(いわせのかりみや)」(福岡市南区三宅)に滞在します。 5月には「朝倉橘広庭宮(あさくらのたちばなのひろにわのみや)」に移り、7月にそこで突然崩御します。原因は臣下も数人亡くなっている [...]


金印の「委」は「倭」の略字?

-委字は倭字を略したる者と相見えん!?- 「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。 金印の事が記載される後漢書には「建武中元二年倭 [...]


金印はなぜ志賀島で発見された?

-奴国王の思惑は?- 江戸時代より金印には贋物説があるのですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰も [...]


金印はなぜ志賀島で…?その弐

-大夫の思惑は?- 「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易く [...]


福岡城に天守はあったか?

-福岡の歴史に登場しない幻の天守閣- 以前は福岡城に天守閣はなかったいうのが定説だったようですが、最近になって細川家の古文書より「黒田長政が天守閣を取り壊すらしい」といった文書が見つかったため、その存在の真偽の議論が活発化しているようです。 福岡城は1607年に完成していますが [...]


「筑前宮崎村」はどこにある?

-福岡と熊本の宮崎兄弟は同族?- 福岡の宮崎兄弟といえば「秋月の乱」に中心人物として参加した宮崎車之助、今村百八郎、宮崎哲之助の三兄弟の事ですが、熊本にも明治期に宮崎兄弟が登場します。 その次男の宮崎八郎は中江兆民らと親交を持ち自由民権活動に奔走、そして西南戦争で西郷軍に参加し [...]