北部九州戦国史 (戦国時代)

室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。 ところが [...]


北部九州戦国年表 (1530年~1621年)

以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。   ■戦国年表■ 1530年 少弐方の龍造寺家兼・鍋島清久らが肥前攻略を目指す大内氏を「田手畷(たでなわて・吉野ヶ里町田手)の戦い」で破り筑前に追う。 1533年 少弐氏と手を結んだ渋川義長( [...]


名家衰退 (1533年~)

南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川氏が任命されるのですが、探題と反りの合わない筑前守護の少弐氏は渋川氏と戦いこれを筑前より追います。しかしこの事が、大内氏の九州進出のきっかけとなります。 少弐氏は幕府の命を受け渋川 [...]


毛利氏の筑前侵攻 (1557年~)

厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種 [...]


休松の戦い (1567年)

毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1567年8月、筑前では毛利氏の支援を受けて秋月種実が大友氏に反旗を翻します。これに対し、大友宗麟は戸次鑑連(べっきあきつら・後の立花道雪)、吉弘鑑理(よしひろあきなお・高橋紹運の実父 [...]


耳川の戦い-筑前・筑後- (1578年)

同族間で争いを繰り広げていた島津氏は貴久が頭主になると、周辺豪族を従え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後には日向を奪われ豊後大友氏の元へ逃れ救いを求めます。これに大友宗麟は島津氏との対決を決意し日向へ大軍を向けます。  [...]


鷲ケ岳城の攻防 (1579年)

1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑紫広門は大友氏に対する敵対心を顕にします。 その翌年の10月、広門は龍造寺氏の将、大田兵衛(おおたひょうえ)の兵と共に、大友方の鷲ケ岳城を攻めるため南面里(なめり・那珂川町)に陣を [...]


蒲池氏の滅亡 (1581年)

「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、触れなければならないのが佐賀の龍造寺氏の事になります。 1534年、肥前で大内義隆の侵攻を辛うじて防戦する少弐資元は、「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で大内軍を撃退した配下の武 [...]


高橋と筑紫の和約 (1586年)

大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友 [...]


岩屋城の戦い (1586年)

1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められます。8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めることになります。 九州平定の大義を得た秀吉はこれに応え、仲裁を試みますが、九州統一を [...]


豊臣秀吉の筑前一夜城 (1567年)

-戦わずして人の兵を屈す-   島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小倉から行橋をまわって筑豊に入り、島津方の秋月種実の城を攻略します。秀吉軍の勢いに形勢不利とみた種実は居城とした益富城(嘉麻市大隈町)を捨て [...]


博多町割り (1587年)

1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)などの戦いにより、荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。この事業を実際に采配したのが、黒田官兵衛と石田三成 [...]


黒田氏筑前入り (1600年)

福岡藩初代藩主、黒田長政の父、黒田如水は切れ者の野心家として知られ戦国の世に豊臣秀吉の参謀として歴史の表舞台に登場しますが、その秀吉自身も如水の智略、策謀には舌を巻いたといわれています。 九州平定後、秀吉は如水の功績に見合うとはいえない低い石高の豊前中津12万石を与えますが、これ [...]