黒田孝高(如水)は豊臣秀吉の参謀として知られ、孝高がいなければ秀吉が天下を取ることができたかわからないと言われる程の人物です。 鳥取城、高松城の攻略、山崎合戦、賤ヶ岳の戦い、四国攻め、九州攻め、小田原攻めと幾多の戦の場で秀吉に従い献策します。 しかしその貢献と裏腹に秀吉は孝高に多大な恩賞を与えようとはしませんでした。これは孝高の野心を疑ったためと言われています。 孝高自身は下克上の時代に人を裏切るような事をほとんどした事がないのですが、この疑いの目は秀吉だけでなく小早川隆景など 極親しい人々も大なり小なり感じ取っていたようで、竹中半兵衛も「毒も薬となることもあろう」批評したといわれます。 このような事からも野心家の面が僅かにでもなかったとはいえないでしょう。 ただその反面、配下の将兵や領民を、大きな意味ではすべての人を誠意を持って大切に扱おうする孝高の人間性も数々の逸話から強く感じられるのです。 この様に油断はならない策謀家の面と共に人間的な温かみを兼ね備えた男を歴史上に見出すのはそうは容易い事ではないでしょう。
 

黒田孝高は通称「官兵衛」、号「如水」で有名ですが、諱は「孝高」でこちらが正式な呼称になります。一般的にはあまり知られていませんが、貝原益軒は『黒田家譜』でほぼ「孝高」で通しており、福岡史伝もこれに倣いこちらの呼称を中心に記述しています。ただ時期や内容によっては「官兵衛」や「如水」が解かり易い場合があり、その際は状況に合わせた呼称を使用しています。



「福岡藩の藩祖 黒田兵衛」(福岡市)
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■黒田孝高年表■

1546年( 1才) 姫路に黒田職隆(くろだもとたか)の嫡男として生まれる。
1567年(22才) 黒田職隆より家督を譲られ姫路城代となる。主君の小寺政職(こでらまさとも)の姪・光(みつ)を妻とする。
1568年(23才) 嫡男・長政(松寿丸)生まれる。
1569年(24才) 「青山・土器山の戦い」で赤松政秀と戦う。
1575年(30才) 岐阜城にて織田信長に謁見し、以後 秀吉の播磨攻略を助ける。
主君・小寺政職、龍野城主・赤松広秀、三木城主・別所長治等の播州の国衆が織田信長に謁見する。
1577年(32才) 「英賀合戦」で毛利軍を撃退する。信長に嫡男・松寿丸を人質として送る。竹中半兵衛と共に佐用城攻略する。
1578年(33才) 別所長治や主君・小寺政職が毛利氏に付き、荒木村重も信長に叛旗を翻す。村重を翻意させようと訪れた有岡城で捕らえられる。孝高の謀反を疑った信長が嫡男・松寿丸の殺害を命じるが、松寿丸は竹中半兵衛によって匿われる。
1579年(34才) 竹中半兵衛が結核のため没する。
有岡城が信長の軍勢により落ち、配下の栗山利安に救い出される。(この時に信長は松寿丸が生きている事を知り喜んだと言われる)
1580年(35才) 別所長治の三木城が落ちる。主君・小寺政職も御着城を追われ、以後、孝高は秀吉の配下となる。
1581年(36才) 鳥取城攻略。淡路攻略。
1582年(37才) 高松城水攻め。「本能寺の変」が起こり信長が討たれ秀吉は「中国大返し」を行う。
孝高は小早川隆景と調停を行うと共に殿軍を勤める。「山崎の戦い」で秀吉が明智光秀を破る。
1583年(38才) 「賤ヶ岳の戦い」で秀吉が柴田勝家を破る。
1584年(39才) 高山右近の勧めでキリスト教に入信する。
1585年(40才) 四国攻め。父・黒田職隆、没。
1586年(41才) 九州攻め。小西行長等と共に博多復興事業の「博多町割り」を行う。秀吉より豊前12万石を与えられ中津城を築く。
1587年(42才) 「肥後国人一揆」が起こり、鎮圧へ向かう。
1588年(43才) 「肥後国人一揆」に呼応し城井谷城で抵抗した城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で謀殺する。
1589年(44才) 孝高は家督を長政に譲り、如水と名乗り隠居しようとするが秀吉の許しを得られず。
1590年(45才) 小田原攻め。北条氏政、氏直と会談し小田原城開城させる。
1592年(47才) 文禄の役。浅野長政と囲碁をしているところに面会に来た石田三成を待たせたため不仲となる。如水は秀吉の勘気に触れ剃髪し出家する。
1597年(52才) 小早川隆景没する。(如水は「この国から賢人が去った」とつぶやいたといわれる)
慶長の役。
1598年(53才) 秀吉没する。
1599年(54才) 子息・黒田長政が加藤清正、福島正則等と石田三成を襲撃する。徳川家康が仲裁に入る。
1600年(55才) 関ヶ原の戦い。如水は豊後中津で兵を起こし西軍についた武将の城を次々と攻略する。黒田長政は家康より52万石を与えられ筑前に入る。
1601年(56才) 太宰府にて隠居生活に入る。
1604年(59才) 京都藩邸で死去。

 
 


 
 
 
■孝高の事

半兵衛と官兵衛

竹中半兵衛との接点は官兵衛が信長に謁見した1575年頃から1578年に有岡城で荒木村重に拘束されるまでの約2~3年の僅かな期間です。 この二人は秀吉の元で同じ参謀として働くのですが、性格はまったく対照的なものだったようです。 半兵衛は「知らぬ顔の半兵衛」という言葉が残るように感情 [...]


官兵衛の兜

如水が一番大事にした兜 -銀白壇塗合子形兜(ぎんびゃくだんぬりごうすなりかぶと)- は何故か現在、 岩手県盛岡市に存在していますが、その経緯は次の通りです。 兜は正室・光の実家の櫛橋家より光との婚儀の前年に送られたものですが、 晩年に死期を悟った如水はこの兜を一番信頼の厚い重臣・ [...]


官兵衛と立花宗茂

官兵衛と立花宗茂の二人には大きな接点が三度あります。 先ずは1586年に「岩屋城の戦い」で父・高橋紹運を討たれた宗茂が立花城に籠城し、九州制覇目前の島津軍を迎え撃った時の事です。 秀吉に九州の島津攻略を命じられた官兵衛は毛利軍の軍監として九州に上陸し、島津軍を追い宗茂の窮地を救い [...]


如水の気配り

天才肌の人は気配りをしないといったイメージが個人的には強いのですが、如水は気配りにおいても一流の人だったようです。 部下がなにか失敗をしでかすとしこたま叱りつけはするものの、その場で簡単な用事を言いつけ主従関係が壊れていないことを暗に伝えたといいます。 また「得手、不得手」や「想 [...]


如水の隠居生活

1589年、官兵衛は如水と名乗り長政に家督を譲り隠居しようとしますが秀吉に許されず、 実際に隠居生活に入るのは12年後の「関ヶ原の戦い」の翌年でした。 隠居した如水は太宰府に庵を結び和歌・連歌を楽しんだと言われます。 如水は14才の頃に母を亡くしたのをきっかけに和歌にのめり込むも [...]


如水・殉死の禁止

「人を殺すと言ふは容易ならざることなり」 如水は戦場以外では敵でも配下の者でも、その命を奪うことをたいへん嫌ったと言われます。 「配下の者を手打ちにするなどは短慮の至り」と言い切り、部下を手に掛けることは生涯一度もなかった様です。 1604年、死期を悟った如水は京都藩邸の病床に [...]


光雲神社

光雲神社(てるもじんじゃ)には藩祖・黒田如水公と初代藩主・黒田長政公が祀られてます。 この地には以前、徳川家康を祀る東照宮がありましたが、維新で幕府が倒れた後は新政府への配慮からか廃れたようです。 そして1909年に天神にあった光雲神社をここに遷座し現在に至っています。 この神社 [...]


正室・光の読みは?

官兵衛は生涯を通して側室を置かなかったようですが、これは一時信仰したカトリック教の影響を受けたからなのか、それとも正室・光との 心の繋がりが強かったからなのかよく分かっていません。 ところで正室・光は最近まで「てる」と呼ぶのが通説だったようですが、つい最近 福岡市の圓應寺(開基・ [...]


号・如水の意味

豊前で抵抗をする武将・城井鎮房(きいしげふさ)を中津城で謀殺した翌年、官兵衛は家督を長政に譲り如水を名乗ります。不本意な方法で事を終結させた官兵衛はこの辺りが自分の引き際と考え隠居を望んだのかもしれません。 号「如水」の意味を今さら掘り返すのも野暮な話なのかもしれませんが、その語 [...]


孫子の兵法の事

「孫子」は中国の春秋時代末(今から2500年ほど前)に孫武によって書かれたと言われる兵法書ですが、日本でも古くから軍事を学ぶテキストとして多くの人が通読していたようです。当然、黒田官兵衛や竹中半兵衛も若き頃にこの兵法書を繰り返し読んだものと想像されます。 ちょっとこじつけの感もあ [...]

 


 
 
 
■関連記事

博多町割り (1587年)

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官兵衛的な人たち

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棟上げの菓子袋の思い出

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■人物伝

黒田孝高(くろだよしたか)

【1546年~1604年】 荒木村重が信長へ謀反を起こし有岡城(伊丹)に籠もると、黒田孝高(官兵衛)は村重の行動を思いとどめさせるため有岡城に入りますが、 そこで1年もの間 拘束されてしまいます。救い出された孝高はこの間の土牢生活で、足を患い頭部には瘡の痕が残ったと言われていま [...]


 
 
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【1567年~1643年】 高橋紹運の長男として生まれ後に嫡男のない立花道雪に請われて養子となり立花家を継ぐことになります。 島津軍の筑前侵攻では父・紹運が岩屋城で玉砕するものの、宗茂は香椎北東の立花山城に篭り豊臣秀吉の援軍が九州に上陸するまで城を守りきります。 その後、数々の [...]


小早川秀秋(こばやかわひであき)

【1582年~1602年】 豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわています。 戦後は加増され岡山に移りますが、「裏切り」の汚名を拭いきれず家臣とと [...]


 
 
【息子・孫】

黒田長政(くろだながまさ)

【1568年~1623年】 豊臣秀吉の参謀・黒田官兵衛(如水)の長男として生まれます。十歳の頃に父・官兵衛の謀反が疑われ織田信長に殺されかけますが、 秀吉の部下・竹中半兵衛に匿われ命を取り留めます。それから二十数年後に秀吉が死去し「関ヶ原の戦い」が起こると、 徳川家康の東軍に属 [...]


黒田忠之(くろだただゆき)

【1602年~1654年】 行動に何かと問題のある嫡男・忠之は黒田藩の後継者から外されそうになりますが、栗山大善の支援によりその立場を守ります。 しかし初代藩主・長政の没後に藩主の座についた忠之は栗山大善と不仲になります。 二人の関係が泥沼化すると忠之はついに大善から幕府へ訴え [...]


黒田長興(くろだながおき)

【1610年~1665年】 黒田長政は後継者に三男の長興を立てようとしますが、栗山大善ら家臣団の猛烈な反対に合い諦め、長男・忠之を後継者とします。 ただ忠之のみに黒田藩を託すことに不安を抱いた長政は、長興に五万石を与え分藩させることにしました。 これが秋月藩になります。 [...]


 
 
【「黒田家譜」の著者】

貝原益軒(かいばらえきけん)

【1630年~1714年】 福岡藩の儒学者で、学才は多岐に渡りシーボルトからは「日本のアリストテレス」と評価されたという逸話もあります。 このページでも度々参照している「筑前国続風土記」の他「養生訓」、「大和本草」、「女大学」などの有名な著書が多数あり、 また宮崎安貞の「農業全 [...]