名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」

いま時の若い者はなどと、口はばたきことを申すまじ
山本五十六


 


 
 

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PickUp

福岡史伝

応仁の乱-筑前- (1467~1478年)

少弐氏と九州探題に命じられた渋川氏との反目に乗じて筑前に勢力を伸ばしていた大内氏は、1467年に「応仁の乱」が起こると兵を京都に向けます。 対馬に逃れていた少弐政資(この時点では頼忠)は対馬代官の宗氏の支援を受け筑前に上 [...]

名所旧跡

柴田城址

-筑紫野市天山-     鎌倉時代末期~南北朝時代 応安5年(1372年)菊池武光らの砦か? 菊池武光 元応元年(1319年)?~応安6年(1373年12月29日)高良山攻防戦の [...]

意外な話

月形半平太って誰? (1919年)

-薩長同盟のもう一人の立役者、月形洗蔵- 「月様雨が」 「春雨じゃ濡れて参ろう」 月形半平太は大正時代にヒットした舞台劇「月形半平太」の主人公の名前です。この架空の志士のモデルは土佐の武市半平太らしいのですが、苗字の [...]

 
 
 
福岡人物ランキング

 施政、福祉、文化に貢献した人物ベスト5


道君首名(みちのきみおびとな)

【662年~718年(奈良時代)】 朝廷の官僚として「大宝律令」の選定に参加し、51歳の頃に新羅大使として1年ほど赴任します。 そして帰国した首名は筑後や肥後の施政を任され、果物や野菜の栽培、畜産を促進、灌漑対策など農政の改革を行います。 その際、規則を発布しそれに従わない者に [...]



小野岑守(おのみねもり)

【778年~830年(平安時代)】 平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。 余談にな [...]



宮崎安貞(みやざきやすさだ)

【1623年~1697年】 広島の出身で一時、福岡藩へ仕えますが5年ほどで自ら浪人し、周船寺村で農業の研究に没頭します。 そして晩年には名著「農業全書」を貝原益軒の協力で出版します。この書は施政者や農業関係者より絶賛され、 その後の農業に大きな影響を与えたといわれています。 [...]



貝原益軒(かいばらえきけん)

【1630年~1714年】 福岡藩の儒学者で、学才は多岐に渡りシーボルトからは「日本のアリストテレス」と評価されたという逸話もあります。 このページでも度々参照している「筑前国続風土記」の他「養生訓」、「大和本草」、「女大学」などの有名な著書が多数あり、 また宮崎安貞の「農業全 [...]



吉備真備(きびまきび)

【695年~775年(奈良時代)】 奈良時代に安倍仲麻呂や玄昉と共に唐に派遣された留学生です。時の権力者の橘諸兄(たちばなもろえ)の元で改革を進めたものと思われますが、しかし何があったのか突然、筑前守として左遷されます。大宰府では副遣唐使や大宰少弐、大弐を歴任し、また筑紫の軍備 [...]

 福岡にやってきた超有名人ベスト5


菅原道真(すがわらみちざね)

【845年~903年(平安時代)】 菅原道真は優れた才能で朝廷での位を次々に進めますが、藤原時平の画策により大宰府へ配流されます。 そして翌年には京都より伴った幼い子供が亡くなり、京都からは妻の死の知らせが入ります。 そして自身も失意の中で病を得て病没することになります。 遺骸 [...]



豊臣秀吉(とよとみひでよし)

【1537年~1598年】 織田信長の部下として頭角を現した秀吉は、信長の死後その領地をほぼ継承し、四国を手中に収めると次に九州平定に着手します。 そして1587年に島津義久を降すと筑前へ戻り、「博多町割」と呼ばれる復興を行います。 権力掌握後の秀吉に対しては様々な評価がありま [...]



足利尊氏(あしかがたかうじ)

【1294年~1372年】 後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 これを知った菊池武敏・阿蘇惟直は肥後より北上し尊氏打倒を目指しますが、尊氏はこの軍を「多々良浜の戦い」で打ち破り大宰府の原八坊・一坊に 入り京都奪還を目指し [...]



宮本武蔵(みやもとむさし)

【1584年~1645年】 戦国末の動乱期に美作に生れ、13歳より壮年に至るまで六十数回の剣術勝負を行い負けた事がなかったといわれます。その中でも「巌流島の戦い」はよく知られていますが、この戦いは豊前・小倉の船島(現在は山口県)で行われ、細川藩の検史が決闘を見届けています。 そ [...]



坂本龍馬(さかもとりょうま)

【1836年~1867年】 勝海舟が失脚し、1865年 神戸海軍操練所が閉鎖されると、龍馬は一旦、鹿児島に身を寄せます。 そして5月には太宰府を訪れ五卿と面談します。この時に五卿の一人、東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)は龍馬の印象を 「偉人なり、奇説家なり」と評しています。龍馬 [...]

 猛将・義将・勇将ベスト10


立花道雪(たちばなどうせつ)

【1513年~1585年】 大友氏の猛将で、反旗を翻した立花鑑載(たちばなあきとし)を降して立花山城に入場するまでは戸次鑑連(べっきあきつら)の名で知られています。 毛利氏と連携した筑前の秋月、高橋、筑紫氏らが抵抗の兵を挙げると大友軍の中心武将として戦い、また肥前の龍造寺氏、中 [...]



高橋紹運(たかはしじょううん)

【1548年~1586年】 反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきさと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の [...]



藤原隆家(ふじわらたかいえ)

【979年~1044年(平安時代)】 平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性 [...]



大蔵春実(おおくらはるざね)

【?年~?年(平安時代)】 前漢高祖・劉邦、後漢光武帝・劉秀の血を受け継ぐといわれる人物で朝廷より「藤原純友の乱」の平定に派遣されます。 乱の平定後は大宰府南方の原田に屋敷を置き大宰大監(だざいだいかん)に就任します。その後、京都に戻りますが その地に残った子孫は地名の原田氏を [...]



山鹿秀遠(やまがひでとう)

【?年~1185年?(平安時代)】 豊前国との境、筑前国山鹿の豪族です。治承・寿永の乱では平家方に属し、大宰府を追われた安徳天皇と平家一門に最後まで付き従います。壇の浦では平家の主力として戦いますが、平家一門と運命を共にしたものと思われ、以後は歴史に登場することはないようです。 [...]



菊池武光(きくちたけみつ)

【1319年~1373年】 菊池武時の十男で、母親方の後ろ盾がなかったためか十三代頭主の兄・菊池武重の没後、弟の武士(たけし)にその座を譲ります。しかし公卿の娘の子であった武士は武力、統率力に欠けたのか頭主の座を廃されて、武光が十五代頭主となります。 その後 武光は後醍醐天皇の [...]



今川了俊(いまがわりょうしゅん)

【1326年~1420年】 渋川氏に代わり九州探題に命じられると長門の大内氏の協力を得て九州に上陸します。 そして菊池武光を筑前より追い落とし12年ぶりに大宰府を南朝勢力より奪い返します。 しかし九州探題に筑前支配の主導権を奪われる危険性を感じた少弐冬資(しょうにふゆすけ、少弐 [...]



黒田孝高(くろだよしたか)

【1546年~1604年】 荒木村重が信長へ謀反を起こし有岡城(伊丹)に籠もると、黒田孝高(官兵衛)は村重の行動を思いとどめさせるため有岡城に入りますが、 そこで1年もの間 拘束されてしまいます。救い出された孝高はこの間の土牢生活で、足を患い頭部には瘡の痕が残ったと言われていま [...]



河野通有(こうのみちあり)

【1250年~1311年】 伊予の御家人で「弘安の役」に博多湾岸警護に参陣します。 河野の軍は防塁を背に陣を張り元軍に怯るまない姿勢を見せました。 この陣は「河野の後築地(うしろついじ)」と評判になり日本軍の意気高揚につながったといわれます。 また操船術に長けた河野軍は小船で元 [...]


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草野経永(くさのつねなが)

【?~?】 筑後の御家人で父・草野永綱(くさのながつな)と共に「弘安の役」に参陣します。 博多湾に悠々と停泊する元の船団を目の当たりにした経永は「何とか一泡吹かしてやろう」 と2艘の小船に郎党を分乗させると夜陰に紛れて元の軍船に近づきます。そして敵船に飛び移ると火をかけ、 無警 [...]

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