「保元の乱」「平治の乱」に勝利した平清盛は日宋貿易の独占を図るために博多・袖の湊の拡張工事を行います。これは博多商人の思惑と一致し博多の人々の平家への期待と支持は大きなものだったようです。『博多どんたく』の元となる『博多松囃子(まつばやし)』は清盛の嫡男・平重盛に感謝の意を表すために始められたという説もあります。
しかし、平家の栄華も二十数年でほころび始め、平家の人々は源義仲の兵に京を追われ大宰府に落ち延びます。九州は平家の影響力の強い地域でしたが、後白河法皇の平家追討の院宣が出されると、豊後の緒方氏は平家に対抗する姿勢を示します。これに安徳天皇と平家の人々は大宰府を脱し、山鹿(福岡県遠賀郡芦屋町)から柳が浦(北九州市門司区大里)、屋島(香川県高松市)、彦島(山口県下関市)へと逃れます。そしてついに「壇ノ浦の戦い」で敗れ去り滅亡への道をたどります。
その後、「壇ノ浦の戦い」で辛うじて生き残った人々も源氏の兵に追われ四散し、ある者は討たれ、ある者は自ら命を絶ち、ある者は山深くに分け入り落人伝説を残すことになるのです。


 

■平家興亡年表■

1156年 7月 「保元の乱」で後白河天皇配下の平清盛、源義朝が崇徳上皇方を破り、上皇方だった源為義は切られ、源為朝は伊豆大島へ流配となる
この頃から平家による博多の袖の湊の拡張工事が始まったものと思われる
1159年 12月 「平治の乱」で平清盛が源義朝を破り、義朝は尾張で討たれる。源頼朝は捕らえられ伊豆へ流配となる
1177年 6月 「鹿ヶ谷の陰謀」が露見する
1179年 7月 清盛の後継者で嫡男の平重盛が死去
1180年 4月 以仁王の令旨が発せられ源頼政が挙兵
5月 源頼政が平家の軍に敗れ自刃し以仁王も討たれるが、源頼朝、源義仲らが各地で挙兵する
9月 九州では「鎮西反乱」が起り、原田種直と菊池隆直が戦い大宰府が焼け落ちる
10月 「富士川の戦い」で平家が敗走する
1181年 2月 清盛が死去
8月 平貞能が「鎮西反乱」平定のため派兵される
1182年 4月 平貞能が菊池隆直を降伏させる
1183年 5月 義仲が「倶利伽羅峠の戦い」で平家の軍を破る
6月 平貞能が九州より帰京する
7月 源義仲が平家を追い京に入る
8月 平家が大宰府に入る
11月 「水島の戦い」で平家が源義仲を破る
1184年 1月 「宇治川の戦い」で源義仲が源範頼、義経の軍勢に敗れ討死する
2月 「一ノ谷の戦い」で平家が義経に敗れる
豊後の緒方氏と筑後高野で戦いとなるが、敵が大軍で押し寄せたため平家は敗れ大宰府から筑前山鹿へ逃れる。その後、豊前柳浦、四国屋島へと移る(『平家物語』には時期は記載されていない)
10月 柳浦では重盛の三男・平清経が入水する
1185年 2月1日 「葦屋浦の戦い」で原田種直が源範頼に敗れ、平家は九州への足がかりを失う
2月19日 「屋島の戦い」で、平家が義経に敗れ彦島に逃れる
3月24日 「壇ノ浦の戦い」で、平家が滅亡する
その後(伝説?) 〇筑後尾島(筑後市)で平家の敗残兵が打たれ、僅かになった兵も筑後甲田(みやま市)で壊滅する。その後、みやまの待居川上流で7人の平家の女人が自害す
〇糸島の唐原にて平重盛の娘二人が斬られる(?)。二人の母でもある重盛夫人は失意の中、自害する
〇筑後で散った平家の若武者の妻がその地を訪れ自害する
〇平知盛の息・平信盛が孔大寺権現に身を隠し、後に金鉱の採掘に従事する
その他、九州各地に平家伝説は残っています

 


 
 
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