元弘の乱-博多- (1331年~1333年)

倒幕計画が漏れ後醍醐天皇が拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。
これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集め収拾に努めようとします。この呼びかけで博多に向かった、肥後の菊池武時、筑前の少弐貞経、豊後の大友貞宗は鎮西探題を倒す密約を交わしていたといわれます。
博多に入った菊池武時は1333年3月13日に事を決行しようとしますが、時期尚早と判断した少弐貞経と大友貞宗は立たず、逆に探題側につき、兵250を率いて鎮西探題に攻め入った菊池武時を攻撃し敗死させます。菊池武時は前日の夜、少弐貞経と大友貞宗に決起要請の使者を送っていますので、当然探題側は武時の動きを掴んでおり攻撃してくるのを待ち構えていました。もちろん武時もこの状況はわかっていたはずで決死の覚悟で戦いに望んだと思われます。

この事件から2ヶ月後の5月7日には足利高氏は六波羅探題(京都)を落とし、5月22日 鎌倉が新田義貞の軍によって陥落します。そしてその3日後の5月25日に鎮西探題の北条英時は室見川河口付近にあった鷲尾城で少弐貞経、大友貞宗、島津貞久等に攻められ自刃し、北条氏の勢力は崩壊します。


この「元弘の乱」から3年後に大宰府へ攻め込んだ菊池武敏(菊池武時の九男)は少弐家の城、有智山城を攻め落とし父の仇、少弐貞経を自害させます。しかし「多々良浜の戦い」で足利尊氏と少弐貞経の嫡男・頼尚の軍に破れ、肥後に撤退します。

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