弘安の役 (1281年)

「文永の役」から6年後の1281年6月、元軍は二手に別れて侵攻してきました。東路軍は元、高麗の兵4万、江南軍は元に降伏した南宋の兵10万、総数14万の兵は「文永の役」の5倍に近い数です。
6月5日にまずは主力の東路軍が博多湾に現われますが、浜辺には延々と防塁が築かれ上陸可能な場所が見つからないため、志賀島より上陸を開始します。日本軍も「文永の役」で元軍を内陸部に進入させると手強いことを経験していたため、これを必死で食い止めました。幸運だったのは志賀島に平地が少なく元軍が一気に大軍を上陸させることができなかったことです。
また夜間には日本軍の小船が元軍の船を奇襲し手こずらせます。元軍はこの小船に対し投石器で応戦し多数破壊たとのことですが、夜はおちおち眠ることもできず精神的な疲労はかなり大きかったと思われます。「文永の役」のように上陸が簡単でないことを知った東路軍は、江南軍と落ち合うために博多湾を去り西に向かいます。この時、元の軍船の中では疫病が発生し3000人程が病死していました。
そして約1ヶ月遅れて江南軍が到着し東路軍と落ち合います。両軍は平戸あたりに集結し、7月27日には松浦の鷹島付近から上陸を試みますが、ここでも松浦軍や島津軍の攻撃に悩まされ、上陸に手こずります。
そして7月30日夜半に台風が九州北部を通過し、元の軍船はことごとく波にのまれ壊滅します。たった一晩の出来事で5000近い軍船が没し、兵士14万の内、自国へ戻れたものは2万ほどで10万以上が海にのまれたといわれています。

(右上段の写真:生の松原防塁/左下段の写真:百道の防塁)


「弘安の役」ではとかく「神風」の話が大きく伝えられます。これが元軍の侵攻を防いだ第一の要因なのは間違いないのですが、九州を中心とする武士団が地道な努力で築いた防塁と、上陸を喰い止めるため必死で抗戦したことが「神風」に劣らない大きな要因ではないのかと思わずにはいられません。