磐井の乱 (527年~528年)

継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫国造の磐井が乱を起こしこれを阻みました。これは「新羅からの内応要請」や「朝鮮半島での戦役の負担への反発」などが理由とされています。
磐井は肥後と豊後を押さえ、朝鮮からの朝貢船を奪います。これに対し継体天皇は物部麁鹿火(もののべのあらかひ)を将軍とし鎮圧に向かわせます。戦いは528年、三井郡大刀洗町付近で行われ磐井は破れ、斬られたとも豊前方面に逃れそこで死んだともいわれています。
現在、八女市にある岩戸山古墳が生前、磐井のために造られた墓ではないかといわれ、戦後に物部麁鹿火の軍により、この墓の石人石馬が破壊されたと『日本書記』には書かれています。


この頃、朝鮮半島では新羅が急速に力をつけて来た時期で、この事件の32年後の562年に伽耶を併合します。伽耶を支援していた倭国に対抗して、新羅が九州の実力者磐井に資金を贈って同盟を申し込むといった行動は、戦略としてあり得ない話ではないと思われますが、これだけを理由に磐井が乱を起こしたと考えるのは難しいと思います。やはり戦役の負担への反発が一番大きな理由だったのではないでしょうか、継体天皇が任那に送ろうとした兵6万の一部、もしくは半数、もしかしたらその全てが磐井に要請された兵員だったのかもしれません。

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