文永の役 (1274年)

1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、唐津と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。その数、兵3万、軍船900といわれています。
19日には糸島半島東部の今津に姿を現し、一部の軍を上陸させ陸路、博多方面へ侵攻させます。翌20日には軍船を博多港北西周辺に集結させ、室見川河口付近から上陸を開始します。そして陸路今津より進んできた軍と共に、日本軍を攻撃圧倒し、赤坂(市街地西部)まで押し寄せました。
また元軍の別働隊が箱崎方面(博多の東方)へ上陸し、箱崎八幡宮一帯へ火をかけ町を混乱に陥れました。守りきれなくなった日本軍は態勢を立て直すため、とりあえず水城まで撤退したといわれます。
翌日、元軍の大宰府侵攻かと思われましたが、夜が明けると元軍は博多湾より消え去っていました。

 
(右上段の写真:元軍が上陸してきた今津の浜/左下段の写真:筥崎八幡宮に置かれる「蒙古軍船碇石」)

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