2023年9月10日 / 最終更新日時 : 2023年11月18日 kento 江戸 宮本武蔵(みやもとむさし) 【1584年~1645年】 戦国末の動乱期に美作に生れ、13歳より壮年に至るまで六十数回の剣術勝負を行い負けた事がなかったといわれます。その中でも「巌流島の戦い」はよく知られていますが、この戦いは豊前・小倉の船島(現在は […]
2023年6月19日 / 最終更新日時 : 2023年6月19日 kento 江戸 寛政異学の禁 (1790年) 各地で藩校が開設された田沼意次の開放政策時代を経て松平定信は1787年より「寛政の改革」を行います。 質素倹約、文武奨励を柱とする政策は学派統一の方針にも向かい、儒学の講義を朱子学に絞り陽明学や古学などの儒学を禁じます。 […]
2023年6月18日 / 最終更新日時 : 2023年6月18日 kento 江戸 山田堰の建造 (江戸時代中期) 朝倉市山田にある山田堰は筑後川の北側の農地に農業用水を取水するため江戸時代に130年ほどかけて建造されました。 山田という土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊富な水 […]
2023年6月18日 / 最終更新日時 : 2023年6月18日 kento 江戸 巌流島の決闘 (1612年) 関ヶ原の戦いで天下の大勢が決すると西軍だった豊前小倉の主・毛利勝信は改易され、豊前には細川忠興が入ります。そして細川家はその約20年後に加藤清正の子・忠広が改易された肥後に移ります。それに代わり豊前小倉には徳川家譜代大名 […]
2023年5月5日 / 最終更新日時 : 2023年8月27日 kento わかっていない事 金印の「委」は「倭」の略字? -委字は倭字を略したる者と相見えん!?- 「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味にな […]
2023年5月5日 / 最終更新日時 : 2023年9月10日 kento わかっていない事 福岡城に天守はあったか? -福岡の歴史に登場しない幻の天守閣- 以前は福岡城に天守閣はなかったいうのが定説だったようですが、最近になって細川家の古文書より「黒田長政が天守閣を取り壊すらしい」といった文書が見つかったため、その存在の真偽の議論が活発 […]
2013年3月24日 / 最終更新日時 : 2023年9月9日 kento 江戸 黒田騒動 (1632年) 初代藩主黒田長政は「後継者には三男の長興(ながおき)を・・・」と考えますが、家臣の栗山大善(だいぜん)等の反対に押され長男の忠之(ただゆき)を後継者とします。しかし、この長男が福岡藩を継ぐことに不安を払拭できない長政は長 […]
2011年7月23日 / 最終更新日時 : 2023年6月19日 kento 江戸 貝原益軒「筑前国続風土記」 (1703年) 1630年貝原益軒は福岡藩の藩医の子として生まれ、京都、長崎、江戸で見聞を広めます。 益軒は自分の目で見て考え納得したことを文章にする実証主義の人だったようで、「筑前国続風土記」を著すにあたって筑前各地へ自ら足を運び、史 […]
2011年4月29日 / 最終更新日時 : 2023年9月2日 kento 江戸 金印発見 (1784年) 福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます […]