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福岡人物伝
 【小早川隆景】

毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。 この人は思慮深く、行動には慎重な人だった様で、 年下の天才軍師・黒田官兵衛を「天才にありがちな、状況に合わせた素早い対応は時により立場を悪くすることもあるので注意するように」と 暗に戒めたといわれています。


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毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

浦ノ城跡(太宰府市連歌屋)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
現在「浦ノ城跡」は住宅地となっており、この案内板はその児童公園内に立っています。 足利尊氏が「九州落ち」で九州に上陸した直後、菊池武敏が少弐氏の「有智山城(うちやまじょう)」を攻め落します。 その数日後の「多々良浜の戦い」で足利尊氏、少弐頼尚の軍が菊池武敏軍を撃ち破り筑前.....

博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

多々良浜の戦い(1336年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、.....

元弘の乱-博多-(1331年)【福岡史伝・鎌倉】
後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、 この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集め.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし.....

落武者尊氏、筑前で復活!(多々良浜の戦いは多勢に無勢?)【意外な人物伝】
後醍醐天皇軍との戦いで形勢不利となった足利尊氏は一旦京都から落ち九州へ向かいます。 1336年2月下旬に九州に入りますが、それも束の間3月2日には、肥後から攻め上ってきた天皇方の菊池・阿蘇軍と博多東方の多々良浜で戦うことになります。 尊氏は九州に上陸して日も浅かったため兵を集めることもできず、少.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

小早川隆景(1533年~1597年)【福岡人物伝】
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
仁義に欠けると、世の中の仕事というものは、段々衰微してしまうのである
渋沢栄一





意外な話
 【福岡にも長城があった!】(664年)-グーグルアースでも見れる「水城」跡-

中央やや左側に斜めに走る森が水城跡です
664年、白村江の戦いで敗れた中大兄皇子は、唐、新羅の連合軍の反撃となる九州進攻に備え、博多の那の津にあった大宰府(官家)を現在の位置に移し、その防衛線として四王寺山から那珂川方面まで土塁城壁を築きました。土塁の外側(博多湾側)には濠を堀り水を引きましたが、 この水濠が「水城」と呼ばれる理由のようです。また長さは10キロ程の長さがあったと思われ、現在でもYahoo地図、グーグールマップ、グーグルアースなどの航空写真でこの「水城」跡の一部が確認できます。
幸いに唐、新羅の連合軍の九州進攻はなくこの時「水城」は役に立つことはありませんでしたが、この時代より約500年後の1回目の元寇「文永の役」では蒙古軍に不利な戦いを強いられた武士団が「水城」まで撤退して態勢を立て直したといわれています。











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スポットライト人物伝


【平頼盛(たいらよりもり)】
(1133年~1186年)


平清盛の異母弟で平治の乱に活躍します。平清盛の指示により博多に人口港「袖の浦」が建造されたといわれていますが、 実際この港の建造を采配したのは1166年大宰大弐任命された平頼盛だと思われます。 ただし貝原益軒の「筑前国続風土記」には菅原道真配流の時期には「袖の浦」が存在したことをにおわす記述があり、 「袖の浦」の確かな建造年はわかっていません。 ところで頼盛はのちの源平合戦の時、平家一門と袂を.....[全文を表示]



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