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検索の結果 16件の記事が見つかりました


毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

浦ノ城跡(太宰府市連歌屋)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
現在「浦ノ城跡」は住宅地となっており、この案内板はその児童公園内に立っています。 足利尊氏が「九州落ち」で九州に上陸した直後、菊池武敏が少弐氏の「有智山城(うちやまじょう)」を攻め落します。 その数日後の「多々良浜の戦い」で足利尊氏、少弐頼尚の軍が菊池武敏軍を撃ち破り筑前.....

博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

多々良浜の戦い(1336年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、.....

元弘の乱-博多-(1331年)【福岡史伝・鎌倉】
後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、 この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集め.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし.....

落武者尊氏、筑前で復活!(多々良浜の戦いは多勢に無勢?)【意外な人物伝】
後醍醐天皇軍との戦いで形勢不利となった足利尊氏は一旦京都から落ち九州へ向かいます。 1336年2月下旬に九州に入りますが、それも束の間3月2日には、肥後から攻め上ってきた天皇方の菊池・阿蘇軍と博多東方の多々良浜で戦うことになります。 尊氏は九州に上陸して日も浅かったため兵を集めることもできず、少.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

小早川隆景(1533年~1597年)【福岡人物伝】
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
観聴参せずんば、則ち誠聞こえず
-自らの目で見、耳で聞かなければ、真実は見えてこない-
韓非子





名所旧跡・福岡地区西部
 【県指定史跡 宮崎安貞書斎】-西区女原-



宮崎安貞書斎

宮崎安貞は、元和9年(1623年)芸州広島で生まれ、25歳の時、福岡藩主黒田忠之につかえました。まもなくその職をやめ、九州・山陽・近畿の諸国をめぐり、草木や作物の植え付けなど農事の研究を積み重ねました。帰国すると、現在の西区女原に住み、一人の農民として郷土の農業改善、生活の向上に尽くしました。現在も「宮崎開き」の地名が残るほど、積極的に開墾事業も行いました。
また、中国の農業書や諸国での体験をもとに、元禄9年(1696年)農業全書(のうぎょうぜんしょ)(全10巻)を著しました。水戸光圀も絶賛したこの書は、わが国初の農書として名高く、多くの人に読みつがれてきました。
女原に住むこと40年、元禄10年(1697年)に、75歳で亡くなりました。墓(史跡)は現在地より、南側300mのところにあります。
この書斎は、一部手を加えられていますが、安貞の書斎として当時をしのぶことができます。右側にある顕彰碑は、明治21年、宮崎安貞翁を顕彰するため徳永に建てられたものを昭和62年3月宮崎安貞顕彰会の人々の尽力により移築されたものです。

平成13年3月


西区役所


今津元寇防塁のある福岡市教育委員会の案内板より













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スポットライト人物伝


【阿蘇惟直(あそこれなお)】
(?~1336年)


足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近で自害しました。 のちに妻女がその地を訪れ惟直の後を追ったという話が残っています。



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