『福岡史伝』はリニューアルしました。新ページはこちらからどうぞ!!

旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。





記事検索 

検索の結果 16件の記事が見つかりました


一色範氏(?~1369年)【福岡人物伝】
「多々良浜の戦」に勝利した尊氏に九州探題を命じられた一色範氏はそのまま筑前に残りますが、 これに「筑前に二人の主は要らず」と反発したのが少弐頼尚で両者は争うことになります。 この武家派同士の戦いに乗じ、南朝方の菊池氏も再び肥後から筑後筑前へ進出してきます。 範氏はまず菊池氏と手を結び1351年「月隈.....

阿蘇惟直(?~1336年)【福岡人物伝】
足利尊氏が九州に上陸すると菊池武敏と共に筑前へ攻め上り、多々良浜で尊氏軍と激突します。 しかし戦いに敗れたため山越えで佐賀方面へ撤退を試みますが、小城の千葉氏の攻撃を受け天山付近で自害しました。 のちに妻女がその地を訪れ惟直の後を追ったという話が残っています。.....

菊池武敏(?~1341年)【福岡人物伝】
菊池武時の九男。京都より落ちてきた足利尊氏が九州に上陸した情報を掴むと、阿蘇惟直と共に肥後より攻め上ります。 そして少弐氏の有智山城を攻め落とし父・武時の仇、少弐貞経を自害させます。 しかし貞経の嫡子・少弐頼尚や尊氏の軍と多々良浜で戦い敗れると南に撤退します。.....

足利尊氏(1305年~1358年)【福岡人物伝】
後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 これを知った菊池武敏・阿蘇惟直は肥後より北上し尊氏打倒を目指しますが、尊氏はこの軍を「多々良浜の戦い」で打ち破り大宰府の原八坊・一坊に 入り京都奪還を目指します。.....

少弐頼尚(1294年~1372年)【福岡人物伝】
少弐貞経の嫡男。九州に落ちた足利尊氏を下関で出迎え京の戦で敗れた尊氏を励ましたといわれます。 そして父・少弐貞経を討った菊池武敏を尊氏と共に「多々良浜の戦い」で破り、肥後に追います。 しかし二十数年後日本三大合戦に挙げられる「筑後川の戦い」で菊池武光に破れ2年後に大宰府を奪われることになります。.....

島津貞久(1269年~1363年)【福岡人物伝】
「元弘の乱」で少弐貞経、大友貞宗と共に鎮西探題・北条英時を攻め滅し、「多々良浜の戦い」では足利軍に属して戦います。 島津氏は少弐氏、大友氏と共に鎌倉時代に守護を命じられ少弐氏は九州北西部、大友氏は北東部、そして島津氏が九州南部を治めます。 この三氏は九州御三家と呼ばれ九州の中心武家として戦国時代ま.....


[1] [2]







目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
士は独立自身を貴ぶ。熱に依り、炎に附くの念を起こすべからず。
-志の高い者は人に頼らず自己を持つものだ。勢いあるものに寄り従うような気を起こしてはならない-
言志録





意外な話
 【徐福伝説は福岡にもあった?】(BC210年頃)-天山の童男丱女岩-

天山(あまやま)
徐福は秦の始皇帝より「延年益寿」の薬を探すように命を受け、若い男女3000人と五穀の種、工匠たちを引きつれ出航し蓬萊山へ向かうが、その後、徐福は広い土地を得て王となり始皇帝の元に戻ってくる事はなかった。
これが司馬遷の書いた「史記」に載る徐福伝説の概要で、今から2200年以上昔の事になります。

この徐福の得た土地というのが、日本の何処かに違いないと「史記」を読んだ後世の日本の人々は考え、徐福伝説は日本各地に残る事となったのかもしれません。九州では佐賀の金立山や鹿児島の串木野が有名なようですが、福岡にも徐福伝説の痕跡が残っています。

貝原益軒は「筑前国続風土記」の御笠郡天山(あまやま)の項で次のように記述しています。
天山の西方寺(筑紫野市に現存する寺)の上に重なり合う岩石群がある。この場所を里の人々は「童男丱女(どうなんかんじょ)」の旧跡と言うが、その謂われは老人にも知る者はいない。「童男丱女」は中国・秦の時代に徐福が蓬莱に渡った際、連れて行った男女のこども達の事である。

「童男丱女」は「史記」に記されるものではなく、唐代の詩人・白楽天の徐福伝説を詠った漢詩にある言葉のようです。「蓬萊山も見つからず童男丱女は船の中で年老いてしまったのだろうか」といった感じでしょうか・・・

益軒は御笠郡天山の項を次の通り締めています。
童男丱女の岩と言う所が、筑後国河崎(八女市)の里にも、丹後の海辺にもある。これは強引にこじつけて命名したものであろう。



益軒の結論は現実的だとは思われるのですが、時の権力者・始皇帝を手玉に取った徐福の向かった先は大陸から遠く離れた島国の可能性が高く、それが対馬や壱岐や種子島、奄美、沖縄の可能性もある訳で、「日本本土では?」との説もまんざら夢物語ではないのかも知れません。









福岡史伝へのアクセスにはこのQRコードをご利用ください
https://www.2810w.com


スポットライト人物伝


【月形洗蔵(つきがたせんぞう)】
(1828年~1865年)


儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。



このページは ClubTwinHut が運営しています



© 2011 福岡史伝