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一夜漬け福岡史
 【戦国時代】-少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」-

櫛田神社の「博多塀」
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。
しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します。この二人は武力による戦だけではなく知略謀略でしのぎを削ります。 元就はこの戦いに先立って大友氏に遺恨のある秋月種実を秋月の地に帰還させ反抗させます(「休み松の戦い」)。 また大友氏の重臣・高橋鑑種を岩屋城で寝返らせ、大友氏を内部から揺さぶります。
これに対し宗麟は大内氏の残党を周防国に上陸抵抗させ、また毛利氏に滅ぼされた尼子氏の再興を支援するなど背後を脅かし、 毛利氏を撤退させます。

毛利氏の撤退の数年後には、南九州を手中に収めた島津氏が北上して来ます。大友軍は日向の耳川を渡り島津軍に攻撃を仕掛けますが大敗し、 その後島津軍の攻撃に防戦一方となります。次に島津軍は肥前の龍造寺氏を倒し、筑前へ侵攻を開始します。
これに宗麟は対抗する手立てを無くし、大坂の豊臣秀吉に救援を請います。秀吉は仲裁を試みますが、島津義久はこれを蹴り、 軍を進めます。秀吉は様々な事情より九州に兵を上陸させるのに4ヶ月ほどかかりました。 その間、筑前大宰府の岩屋城には大友宗麟配下(この時点では秀吉の配下)の高橋紹運が将兵763名と共に籠り徹底抗戦します。 そして5万の島津軍の攻撃に半月近く持ちこたえましたが、ついに力尽き、将兵と共に玉砕します。 これが秀吉の援軍が九州に上陸する約1ヶ月前のことでした。

島津氏を屈服させ九州を平定すると秀吉は功臣の小早川隆景に筑前を任せ、隆景は博多の東に名島城を築城します。 その後、秀吉が死去すると「関ヶ原の戦い」が起こりこの戦いの勝利に貢献した黒田長政が徳川家康より筑前を与えられ、 以後、江戸時代を通して筑前を治めてゆくことになります。
(2012.12.1)


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意外な人物伝
 【野上一閑と三奈木弥平次】(1581年)-原鶴の一騎打ち-

原鶴温泉
大友氏が島津氏に大敗を喫した耳川の戦いから3年、筑後平野では秋月氏や龍造寺氏が弱体化する大友配下の諸城に攻めかかります。これに大友宗麟は救援の軍を送りますが、この兵の中に野上入道一閑という豪傑がおりました。貝原益軒は「筑前国続風土記」巻之二十五 古城古戦場二 原鶴 の項で一閑入道の事を次の通り描写しています。
「刃渡り3尺5寸白柄の長刀を莖短に持ち、秋月の兵をなぎ倒す事、草を刈るが如し」秋月の兵はこれに対抗しきれず300メートルほど兵を引きます。
しばらくして、秋月の陣より一騎の武者が飛び出し大友の陣に駆け寄り
「秋月の士、三奈木弥平次と申す。野上殿に会いに参った!」
と大声で呼びかけます。
そこに例の長刀を手にした野上一閑が現れ
「お相手申そう!!」
ふたりは馬上、原鶴の戦場を駆け巡り打ち合いますが、なかなか勝負がつかず最後は馬上の掴み合いとなり土ぼこりをあげて共に落馬します。そこに秋月種実の命で加勢に駆けつけた家臣が踊りかかり、さすがの豪傑・野上一閑も討ち取られてしまいます。
その直後に三奈木弥平次も加勢の家臣も大友の兵に囲まれ討たれる事となります。
この二人の誇り高き戦いを想像するに「北斗の拳」のラオウとケンシロウの戦いを思い浮かべずににはいられません。

この戦いの舞台となった原鶴は現在、福岡随一の温泉街となり観光客が憩いのひと時を過ごす場となっています。
「兵どもが夢の跡」そんな感じなのでしょうか・・・。









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スポットライト人物伝


【菅原道真(すがわらみちざね)】
(845年~903年)


菅原道真は優れた才能で朝廷での位を次々に進めますが、藤原時平の画策により大宰府へ配流されます。 そして翌年には京都より伴った幼い子供が亡くなり、京都からは妻の死の知らせが入ります。 そして自身も失意の中で病を得て病没することになります。 遺骸は安楽寺へ埋葬されますが、後にその地に太宰府天満宮が創建され、その学才から学問の神様として祀られることになります。



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