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意外な人物伝 【上杉鷹山の祖は筑前人?】(941年)-大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す- (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山の祖は筑前に勢力を張った時期がありました。 話は800年ほど遡り平安時代の「藤原純友の乱」の時になります。 瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った純友は、朝廷より派遣された討伐軍に伊予の本拠地を攻略されると海路筑紫へ逃れ大宰府を奪います。 これに対し朝廷は討伐軍を差し向けますが、この時に討伐に向かったのが大蔵春実(おおくらはるざね)です。 乱はほどなく鎮圧され春実は博多湾で藤原純友の軍船を奪い取り武功を上げ、そのまま大宰大監(だざいだいかん)に就任します。 そして春実の子孫は大宰府の南の原田に居を構え原田氏を名乗り大宰府の官職を歴任しました。しかし、源平合戦の頃に平家方に味方し、鎌倉幕府が成立すると領地を没収されます。 後に許され原田氏は怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を得、秋月に移った分家の原田氏は秋月氏を名乗り戦国時代まで領地を守ります。 戦国時代の「休松の戦い」では寡兵で大友宗麟配下の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら。のちの立花道雪)が率いる大軍に一泡吹かせますが、戦国末期には豊臣秀吉と対立して九州制覇を目指す島津軍側に従ったため、秀吉の九州平定後に日向串間(後に高鍋へ移る)に転封されました。 それから200年後、この高鍋秋月藩の第6代藩主秋月種美(あきづきたねみ)の次男として生まれた松三郎が養子として米沢藩に入り第9代藩主上杉治憲(鷹山)となるのです。 余談ですがこの秋月氏、南北朝の時代には「多々良浜の戦い」で足利尊氏に敗れ、「筑後川の戦い」では少弐頼尚に従い不利な状況で戦いは終わります。 これだけ源平時代、南北朝時代、戦国時代と敗れた側につきながら、明治維新まで生き残った氏族は珍しいのかもしれません。しかし、この逆境に対する強さが鷹山にも遺伝し大改革の源となったのかもしれません。 ところで、改革者としての鷹山の実績は広く高く評価され現在、様々な書籍が出版されています。またケネディ米大統領がもっとも尊敬できる日本人に鷹山を挙げたという逸話があり。 その逸話の真偽の論争が下火にならないのも、鷹山に興味を持つ人があまりにも多いからではないでしょうか? 冒頭の「なせば成る」は武田信玄の「なせば成る なさねば成らぬ 成る業を 成らぬと捨つる 人のはかなさ」の言葉を引用修正したものらしいのですが、逆に海軍大将山本五十六の残した「やってみせ 言って聞かせて やらせみて ほめてやらねば 人は動かじ」の言葉は 鷹山の「してみせて 言って聞かせて させてみる」に言葉を加えたものといわれています。 現在の停滞した日本社会。もう一度、先人たちの考えや行動を見直してみる時期に来ているのかもしれません。 関連記事:鷹山,春実 |
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福岡悲話 【糸島の平家伝説】(平安時代)-平重盛の妻子と都見石-
時は源平合戦で平家が大宰府に追われた頃の平安時代末期、平清盛の嫡男・平重盛の妻女と二人の娘がこの唐原の地に隠れ住んだと言われます。姉妹の名は、千姫と福姫と言い、都に比べるとずいぶん厳しい山での生活でしたが、いつか都に帰れる日を夢見て過ごします。二人は山から遠くに見える港に入ってくる船を都からの迎えではないかと、大きな石の上に立って長い間、眺めていたという話が残っています。しかし、二人が都に帰る夢は叶いませんでした。 「壇ノ浦の戦い」以降、源氏の兵は落武者狩りを厳しく行いますが、このとき重盛の妻子が唐原に隠れ住んでいる事が知れ、重盛の血を引く姉妹は斬られ、妻女は悲しみのあまりその後に追ったと伝えられます。 そして後に姉妹が港を眺望するために立った大きな石が「都見石」と呼ばれるようになったという事です。 この唐原の地には、「都見石」の他に、重盛の遺髪を葬った「黒髪塚」、「重盛内室の墓」などの伝説にまつわる史跡が存在します。そして現在でも晴れた日には唐原の「都見石」のある辺りからは、二人が眺望したと思われる深江の湾(糸島半島西)を望むことができるのです。 平重盛は清盛に次ぐ実力者で、後白河法皇からも認められていた人物になります。九州にも強い影響力を持っていましたが、重盛は1179年に42歳の若さで病により没します。現在の「博多どんたく」の前身は「博多松囃子(はかたまつばやし)」とされ、この祭りは博多の繁栄に貢献した重盛を追悼するために始まったという説があります。 重盛没後の翌々年には清盛も病没し、その4年後に平家は壇ノ浦で滅亡します。 あくまでも伝説の話と前置きは必要にはなりますが、重盛の妻子が唐原に逃れて来たのは、1183年、平家が都落ちをして大宰府に入った頃の事だと考えられ、重盛の病没から4年後の事になります。平家の人々は大宰府や原田種直の屋敷に入りますが、後白河法皇から追討の命を受けた豊後の兵が大宰府に迫ると、四国・屋島に逃れます。しかしこの時、重盛の妻子はこの地に残り、大宰府より西に遠く離れた糸島の山奥に身を隠します。この事より、重盛の妻女と言われる人は、原田種直の縁者だったと考えられます。種直自身も重盛の養女でかつ従妹でもある女性を内室として迎えていますので、重盛と種直のつながりが強固なものであった事が想像されます。 |
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