【漢委奴国王の金印】(57年) 秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が ... 【三国志に奴国の戸数記載】(200年代) 「三国志」の魏書の巻、東夷伝の倭人の条(魏志倭人伝)に邪馬台国への道のりが記載されていますが、 ... 【熊襲の抵抗】(300年代) 歴史上実在が認められている初めての天皇は崇神天皇ですが、その崇神天皇は倭国を中央集権化するため、「四 ... 【三国動乱の朝鮮へ】(300年代~600年代) 倭国は、西暦300年代に三国時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ進出し伽耶に駐屯します。 そして新羅 ... 【磐井の乱】(527年) 継体天皇は527年、対新羅戦のため任那に近江毛野(おうみのけな)率いる兵6万を送ろうとしますが、筑紫 ... 【観世音寺建立】(661年) 斉明天皇は百済復興支援のため入った九州で突然崩御します。 中大兄皇子はこの母のために大野山 ... 【白村江の戦い】(663年) 倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。 ... 【防人と烽の設置】(663年) 663年、新羅・唐の連合軍の九州上陸を想定し、対馬、壱岐、筑紫に防人(さきもり)と烽(すすみ)を ... 【大宰府、水城、大野城を築く】(663年~665年) 「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、 664年九州の ... 【壬申の乱-筑紫-】(672年) 天智天皇が崩御すると、その半年後の672年6月に、吉野で出家していた天皇の弟・大海人皇子(おおあまの ... 【道君首人の農政改革】(713年) 若き頃に法律を学び官僚としても優秀だった道君首名(みちのきみおびとな)は53歳の頃に筑後守として ... 【奈良時代の権力闘争】(716年) 奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は ... 【梅花の宴】(730年) 元号「令和」の元となった「梅花の宴」は730年の大宰帥・大伴旅人の邸宅で行われました。 「梅花の宴 ... 【藤原広嗣の乱】(740年) 天然痘の流行で当時の有力者、藤原四兄弟(藤原不比等の息子たちで藤原鎌足の孫にあたる)が立て続けに ... 【鑑真和上来日】(753年) 日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う ... 【怡土城の築城】(756年) 怡土城(いとじょう)は奈良時代に、高祖山(たかすやま)に築かれた山城になります。高祖山は福岡市西区と ... 【戒壇院建立】(761年) 753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、そ ... 【神託事件-豊前の伝説-】(769年) 宇佐八幡宮神託事件は「続日本記(しょくにほんぎ)」に書かれている出来事です。 その記事は7 ... 【新羅海賊の入寇】(869年) 平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 6 ... 【菅原道真大宰府流配】(901年) 大宰府に流配された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600m ... 【藤原純友の乱】(941年) 四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、 ... 【「刀伊」(女真族)の入寇】(1019年) 1019年女真族「刀伊」の海賊3,000が50艘の船で対馬、壱岐を襲い、博多湾に姿を現します。 ... 【平清盛「袖の湊」を築く】(1158年~1170年代) 正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのでは ... 【鎮西反乱-治承・寿永の乱-】(1180年~1185年) 1180年の後白河天皇の第三皇子の以仁王(もちひとおう)の令旨(りょうじ)により、日本各地で平家に対 ... 【筑後竹野の戦い】(1183年) 木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原 ... 【芦屋から壇ノ浦へ】(1183年~1185年) 、そこから東の海岸沿いに遠賀川河口の山鹿へ向かいます。 山鹿といえば熊本県山鹿市が有名なのですが、 ... 【源平合戦後の九州】(1185年~) 「壇ノ浦の戦い」で平家が滅亡すると、平家側の武将であった原田種直は領地を没収され鎌倉で囚われの身とな ... 【文永の役】(1274年) 1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、松浦と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り ... 【弘安の役】(1281年) 「文永の役」から6年後の1281年6月、元軍は二手に別れて侵攻してきました。 東路軍は元、 ... 【岩門合戦-霜月騒動-】(1285年) 「弘安の役」から3年後の1284年、北条時宗が病死すると鎌倉で御家人の安達泰盛と得宗家執事の平頼 ... 【元弘の乱-博多-】(1331年) 後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束される ... 【九州南北朝年表】(1336年~) 九州での南北朝の混乱は60年近く続きます。1392年に両朝が統一し、この戦乱は一旦収まるかに見えまし ... 【多々良浜の戦い】(1336年) 1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入ります ... 【観応の擾乱-筑前-】(1351年) 1349年、足利尊氏の右腕の高師直と、尊氏の弟・直義との確執で足利幕府は二派に割れます。 ... 【針磨原の戦い】(1353年) 1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の ... 【筑後川の戦い】(1359年) 「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方 ... 【長者原の戦い】(1362年) 鎌倉時代の鎮西探題に代わって設置された九州探題には足利一族の一色氏が就くのですが、 「観応 ... 【今川氏の九州攻略】(1372年) 1370年、九州に入ることも叶わなかった渋川義行に代わり九州探題に命じられた今川了俊は、 ... 【福童原の戦い】(1375年) 今川了俊に大宰府を攻略され、高良山に移った菊池氏はそこで抵抗を続けますが、不運なことに、翌年に菊 ... 【今川了俊の失脚】(1395年) 南北朝が統一(1392年)された三年後、第三代将軍の足利義満は、九州で勢力を伸ばす探題・今川了俊 ... 【応仁の乱-筑前-】(1467~1478年) 少弐氏と九州探題に命じられた渋川氏との反目に乗じて筑前に勢力を伸ばしていた大内氏は、1467年に ... 【北部九州戦国史】(戦国時代) 室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少 ... 【北部九州戦国年表】(1530年~1621年) 以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。 < ... 【名家衰退】(1533年~) 南北朝時代が終わると、今川了俊は帰京の命が下され九州を去ります。代わって九州探題には足利家一門の渋川 ... 【毛利氏の筑前侵攻】(1557年~) 厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港 ... 【休松の戦い】(1567年) 毛利氏は周防長門を平定し次に東の尼子氏を倒すと、大内氏の領した筑前を取り戻すため動き出します。 1 ... 【耳川の戦い-筑前・筑後-】(1578年) え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後に ... 【鷲ケ岳城の攻防】(1579年) 1578年11月「耳川の戦い」で大敗を喫すると大友氏の筑前筑後の支配は大きく揺らぎ始め、秋月種実と筑 ... 【蒲池氏の滅亡】(1581年) 「本能寺の変」が起こる一年前の事、筑後では古豪・蒲池氏が滅んでいます。この蒲池氏の滅亡を書くに当り、 ... 【高橋と筑紫の和約】(1586年) 大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳 ... 【岩屋城の戦い】(1586年) 1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められてい ... 【豊臣秀吉の筑前一夜城】(1587年) 島津氏の九州制覇を阻止すべく1587年、豊臣秀吉は二十数万の軍を九州に上陸させ、自らも九州に乗込み小 ... 【博多町割り】(1587年) 1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内 ... 【黒田氏筑前入り】(1600年) 福岡藩初代藩主、黒田長政の父、黒田如水は切れ者の野心家として知られ戦国の世に豊臣秀吉の参謀として歴史 ... 【巌流島の決闘】(1612年) 軍だった豊前小倉の主・毛利勝信は改易され、豊前には細川忠興が入ります。そして細川家はその約20年後に ... 【黒田騒動】(1632年) 初代藩主黒田長政は「後継者には三男の長興(ながおき)を・・・」と考えますが、 家臣の栗山大 ... 【山田堰の建造】(江戸時代中期) 土地(筑後川の北側の地域)は筑豊地区と筑後平野を隔てる山地の裾野に当たり、高低差で筑後川の豊富な水を ... 【貝原益軒「筑前国続風土記」】(1703年) 1630年貝原益軒は福岡藩の藩医の子として生まれ、京都、長崎、江戸で見聞を広めます。 益軒 ... 【金印発見】(1784年) 福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になる ... 【寛政異学の禁】(1790年)
各地で藩校が開設された田沼意次の開 ... 【平野國臣の倒幕活動】(1858~1864年) 平野國臣が歴史の表舞台に登場するのは、1858年の「安政の大獄」で幕府に追われる僧・月照の警護役で薩 ... 【真木和泉-禁門の変-】(1864年) 1863年、8月18日の政変で会津・薩摩の両藩に追われた長州藩は京都を去りますが、長州藩士と共に攘夷 ... 【五卿の大宰府入り】(1865年) 会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島 ... 【乙丑の獄】(1865年) 1864年、長州征討を受けた長州藩は一旦恭順を示しますが、 筑前・平尾山荘に逃れていた高杉 ... 【戊辰戦争に福岡藩出兵】(1868~1869年) 1867年10月24日、将軍の徳川慶喜が大政奉還を行うと、12月9日に朝廷は王政復古の大号令を発 ... 【二卿事件-久留米藩難-】(1871年) 明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」 ... 【不落の柳川城炎上す】(1872年) 1873年(明治5年)、不落の城と呼ばれた柳川城から出火し城郭は焼け落ちます。 出火の原因は公式に ... 【秋月の乱】(1876年) 1874年に江藤新平を中心として起こった「佐賀の乱」から2年後、1876年3月28日に廃刀令が発せら ... 【福岡の変】(1877年) 熊本、秋月、萩の乱が醒め遣らぬ1877年2月、薩摩の私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決 ... 【最後の仇討】(1880年) 秋月藩家老の臼井亘理(うすいわたり)とその妻・清子が尊王攘夷派の干城隊隊士十数名により寝込みを襲われ ... |
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