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福岡史伝・南北朝・室町
 【多々良浜の戦い】(1336年)

戦いの起こった現在の多々良川
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。
そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、少弐氏の有智山城を攻め落とし頼尚の父、少弐貞経を自害させます。やっとの事で九州にたどり着いた尊氏ですが、そこにも南から敵の大軍が迫っていたのです。
九州に上陸した尊氏の軍は海路随行した手勢と少弐の兵約5百、合わせても1千に程遠い数であったと思われます。 いったん宗像大社の宗像氏範の館に身を寄せて、南朝側の豪族陣営に使者を送り「『建武の新政』で武家が没落すること」や「陸路、数万の足利軍が九州に向っていること」、「光厳上皇と連携の件」といった事を多少は過大に触れて回ったと想像されます。 そして3月2日にはついに、多々良浜で菊池武敏と対決することになります。この時点で、南朝側の勢力は3万とも6万ともいわれています。 これに対し尊氏の軍は宗像氏範の兵と大宰府から落ちてきた少弐の敗残兵、豊後から駆けつけた大友氏泰(本人は京より尊氏に随行)の兵を合わせても3千、多くても6千程度ではなかったかと思われます。対等に戦うには無理がある数でした。
しかし戦いが始まると、緒戦は菊池が優勢だったものの、南朝側に積極的に動かない豪族や、寝返る豪族が出たため、形勢は逆転し勝敗を決しました。菊池武敏は肥後に撤退し、阿蘇惟直は佐賀方面(小城天山)まで退きましたが千葉胤貞の軍勢に囲まれ自刃しました。
尊氏はこの勝利をきっかけに、九州武士団を糾合し東に向って攻め上り、3ヶ月後の6月には京都を奪還することになります。

「多々良浜の戦い」は上の写真の数百mほど上流(写真奥)で起こりました。右手が博多方面で菊池軍が布陣し、 写真には写っていませんが左手の小高い丘に尊氏の軍が陣取りました。
(2011.4.29)


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魏志倭人伝に記載される邪馬台国の敵国「狗奴国」は、熊野国(和歌山県)、球磨国(熊本県)、出雲、美濃地方の豪族など諸説あります。
以下、魏志倭人伝の抜粋です。

「南、邪馬台国に至る。女王の都する所なり。水行十日、陸行一月。  ~中略~   次に斯馬国あり。  ~中略(19カ国名あり)~  次に奴国有り。此れ女王の境界の尽くる所なり。その南に狗奴国あり。男子を王となす。その官に狗古智卑狗あり。女王に属せず。」

「その南」の「南」は「北」と解釈されます。これは当時の中国では、日本列島の南北が逆になっていたためです(この様な地図も残っているようです)。この事より「美濃地方の豪族」といった説が濃厚だと思われています。しかし九州内の南北は当時の中国で理解されていて且つ「その南」の「その」が「倭国(の奴国)」を指していれば、球磨国(熊本県)説も浮上し、「狗奴国」と南九州地方の「熊襲」は同一民族ということになります。また「その官に狗古智卑狗有り」の「狗古智卑狗」は「かくちひこ」と読みこれが、「菊池」という地名に関連するのではとの説もあります。 この説とは別に「かくちひこ」は「河内」につながるのではないかとの考え方もあります。 この場合「その南」の「その」は「倭国」ではなく「邪馬台国」のみを指すことになります。方角の解釈は難しくなりますが、これが熊野国(和歌山県)説になります。以上の説は「邪馬台国畿内説」を前提としていますが、「邪馬台国九州説」を採ると当然、狗奴国は「球磨国」で熊襲である可能性が高くなります。
これらの説とは別に「国譲り伝説」や「四道将軍」の四方面のひとつの方面が「山陰道」ではなく「丹波道」になっている事から山陰地方の丹波の先の国「出雲」が狗奴国ではないかとの説もあります。









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【菊池武時(きくちたけとき)】
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鎮西探題・北条英時の呼びかけで博多に参陣した肥後の菊池武時はこれを好機と捉え鎮西探題打倒の旗を揚げ北条英時の探題へ討ち入ります。 しかし探題打倒の密約を交わしていた少弐、大友両氏は探題側につき菊池武時は討たれます。 武時は前夜に少弐貞経、大友貞宗に決起要請の使者を送っていたので、当然、鎮西探題側は武時の動きを察知していたことになります。 武時もこの事は承知の上で決死の討入りだったようで、鎮西探題へ.....[全文を表示]



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