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一夜漬け福岡史
 【南北朝・室町時代】-「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ-

大刀洗の「菊池武光像」
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし、死を覚悟したといわれています。 しかし実際に戦いが始まると敵には動かない勢力や寝返る軍勢が出て尊氏は勝利します。
この「多々良浜の戦」で少弐氏と原田氏は尊氏側、秋月氏は菊池側で参戦しています。

「多々良浜の戦」に勝利した尊氏は九州武士団を率い再び京都へ向けて攻め上りますが、 九州を去るにあたり配下の一色範氏(いっしきのりうじ)を九州探題として残します。 しかし、この処置が筑前を地盤とする少弐氏にとって面白いはずがなく、当然の流れとして一色氏との対立が起こります。 また、この北朝側の内紛に乗じ肥後の菊池氏も再び筑前に進出し、筑前三国志の様相を呈します。 少弐氏は一色氏との争いで不利な状況に落ち入ると「敵の敵は味方」という訳で菊池氏と手を組み、 一色氏を九州から追い落とします。
しかし共通の敵が消えると再び少弐、菊池の両氏は争います。 1359年、日本の三大合戦に挙げられる「筑後川の戦い」で両者は激突します。 双方合わせて10万の兵が入り乱れて闘い、4人に1人が死傷するという未曾有の戦いになりました。 結果的に少弐氏が不利な状況で戦いは終わり、2年後に菊池氏が大宰府を奪います。

その後、斯波氏、渋川氏が九州探題に任命されるも北朝方は九州を挽回できず、今川了俊の就任によって漸く大宰府を奪還します。 その20年後に南北朝が統一されると、1395年に今川了俊は失脚し京都に呼び戻され、九州探題には渋川氏が任命されます。 しかし当然の事として歴代の探題とそりの合わない少弐氏と争うこととなります。 この争いに乗じ、今川了俊の九州制圧を手助けした長門周防の大内氏が筑前に勢力を伸ばします。 これにより渋川氏も少弐氏も肥前に追われます。そして1467年に「応仁の乱」が起こり10年ほど動乱が続きますが、 少弐氏はこの混乱で兵力が手薄になった大内勢を追い筑前を奪い返します。しかし少弐氏の筑前支配も「応仁の乱」の収束と伴に終わり、 再び筑前には大内氏が大軍を送りを勢力下に置きます。 少弐氏は以後も筑前の奪還を試みますが、ついには配下の離反が起こり龍造寺氏に攻められ滅びます。 そして龍造寺氏は肥前で勢力を拡大し戦国大名にのし上ります。
(2012.11.26)


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福岡史伝・南北朝・室町
 【針磨原の戦い】(1353年)

1353年1月22日、直冬が去り戦う名分を失くした少弐頼尚は大宰府の浦ノ城で九州探題・一色範氏の猛攻に晒されますが、 そこに宿敵・菊池武光の南朝軍が援軍に現われたため窮地を脱します。この時に少弐頼尚は武光に感謝し 「今より子孫七代まで、菊池の人々に向かって弓を引き、矢を放っことがあってはならない」と起請文を書いたといわれます。 そして2月2日には、大宰府より3㎞ほど南の針磨原で少弐氏の加わった南朝軍が一色の軍を撃破し(針磨原の戦い)、 翌年には再び南朝軍が「姪浜、飯盛の戦い」で一色軍を破り、再起不能となった範氏は長門に逃れます。
その後、九州探題が不在となると少弐頼尚は北朝方に寄り、南北朝の対立が再び表面化してくる事になります。

(2014.11.24)









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スポットライト人物伝


【仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)】
(?~362年)


日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子で熊襲征伐に意欲を燃やしますが橿日宮で突然崩御します。 崩御の理由は后の神功皇后の神託に従わなかったためとも、熊襲の矢に当たったためとも言われていますが、 歴史学上では実在しなかったという説もあるようです。



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