
■後漢初代皇帝から奴国王へ送られた金印■
1784年、志賀島の田地で側溝の整備をしていた地元農民によって金印が発見されます。
金印は儒学者・亀井南冥に鑑定依頼されますが、南冥は中国南北朝・宋の時代に書かれた「後漢書」に記される
「建武中元二年(西暦57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」
という文章に注目し、この金印は「後漢書」に記載される印綬に違いないと鑑定します。
この西暦57年の出来事は卑弥呼の時代より約180年ほど前の事で、国外の書物に残る福岡の歴史で一番古い出来事になります。
その後、金印には贋作論が出され議論が繰り返されますが、1931年には重要文化財に、1954年には国宝に指定されています。
■漢委奴国王印年表
B.C.100年前後
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前漢七第皇帝の武帝(劉徹)より?王に金印「?王之印(てんおうのいん)」が送られたと推測される。
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57年
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後漢初代皇帝の光武帝(劉秀)より奴国王に金印が送られる。(後漢書の記述内容)
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58年
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光武帝の第九子・劉荊が廣陵王に封じられた際に金印「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」を受領する。
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239年
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卑弥呼が魏に使者を遣わし「親魏倭王」の金印を受ける。(三国志の記述内容)
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200年代後半頃
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晋の陳寿(ちんじゅ)によって「三国志」が書かれる。
「三国志・倭人の条(魏志倭人伝)」には「漢の時に朝見する者あり」と記載される。
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400年代前半頃
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南北朝時代の南朝・宋の范曄(はんよう)によって「後漢書」が書かれる。
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1784年
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2月初旬 修猷館、甘棠館が開校。
2月23日 志賀島の田地で金印が発見され、亀井南冥により「後漢書」に載る金印と鑑定される。
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1792年
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亀井南冥、甘棠館・館長の座を追われる。
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1956年
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中国雲南省の墳墓で蛇鈕・「?王之印(てんおうのいん)」が発見される。
この印の鈕(取っ手)は「漢委奴国王印」と同じ蛇鈕。
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1981年
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江蘇省より「廣陵王璽(こうりょうおうじ)」が発見される。
この印は「漢委奴国王印」の製作工法と多数の類似点が指摘される。
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■関連記事
福岡史伝・弥生・古墳 【漢委奴国王の金印】(57年)
 | 金印イメージ |
秦の始皇帝が中国を統一したのが紀元前221年で、その「秦」は二代目で倒れ、項羽と覇を争った劉邦が「漢(前漢)」を興します。
漢は200年ほど続きますが、臣下の王莽が一時、政権を簒奪し国名を「新」とします。しかし「新」は人々の支持を得られず倒壊し、
劉邦の子孫、劉秀がこの混乱を収め「漢(後漢)」を復興します。「漢委奴国王の金印」はこの劉秀(光武帝)が奴国王に送ったものです。
この「後漢」も200年ほど続きますが次第に乱れ、日本でもよく知られる劉備、曹操、孫権の三国志の時代に入っていきます。
この三国の中で一番勢いがあったのが曹操の興した「魏」になりますが、この国は劉備の建てた「蜀」を併合した後に、
司馬懿(仲達)の孫、司馬炎に乗っ取られ「晋」になります。
邪馬台国の記事を記載する「三国志・倭人の条(魏志倭人伝)」はこの時代の陳寿(ちんじゅ)によって書かれたものです。
その後「晋」は三国の残りの一国「呉」を平定し中国を統一しますが、相次ぐ内部抗争で北方の異民族を引き入れることとなり、
次第に自ら引き入れたその異民族勢力に南東に追われることとなります。
そして華北(中国北部)にはこの異民族たちの建てた国が乱立します。これが「五胡十六国」の時代です。
最終的に華南(中国南部)は南に追われた「晋(東晋)」の武将、劉裕が皇帝に禅譲させ「宋」を建て、華北は異民族勢力の「北魏」が統一し、
ここに「南北朝」時代が始まるのです。
中国4千年の歴史の一部を長々と書いてしまいましたが、ここからが本題です。
「後漢書(ごかんじょ)」は劉裕が建てた「宋」の范曄(はんよう)という人物によって書かれました。
ちなみに「三国志」は著者の陳寿自身や親、祖父が生きた時代を記述していますが、
「後漢書」は後漢が倒れて200年を経て書かれたものなので、当然古い史書などを頼りとしています。
その中のひとつが陳寿の「三国志」といわれ、そこから引用されたと思われる部分が各所に見られるそうです。
「後漢書」の中には次の一節があります。
「建武中元二年、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」
これは西暦57年のことで、この頃、倭国の南端に奴国という王国が存在したということになります。
そして1700年を経た江戸時代にこの金印が、志賀島の田地から二人の農民の手により掘り出され、大騒ぎになるのです。
(2011.7.24)
福岡史伝・江戸 【金印発見】(1784年)
 | 金印イメージ |
福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。
1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます。
金印は甘棠館(かんとうかん、福岡藩藩校)の館長、亀井南冥の元に届けられ、
後漢の光武帝より送られた「漢委奴国王」印と判明しました。判定の元となった文献は432年、
中国の南北朝時代の范曄という政治家によって書かれた「後漢書(ごかんじょ)」という書物で次の通り書かれています。
「建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」
光武とは後漢の初代皇帝、光武帝のことで、「項羽と劉邦」で有名な前漢の創始者、劉邦の子孫にあたります。
前漢と後漢は同一の劉家が統治したので同時代と考えてもよいと思うのですが、王莽という臣下に15年ほど簒奪され
「新」という国を建てられたため、前漢、後漢に歴史上分けられています。
この光武帝は人徳も厚く、無駄な血を流さずに混乱した中国を統一したということで、歴史を知る後世の人々からも好感を
持たれています。この皇帝の金印が出土したのですから、これは世紀の大発見となりました。
しかし、この大発見に疑問を投げかける人々も出てきました。
この「金印偽物説」についての詳細はここでは省きますが、詳しい事を知りたい方はネットでググッてみて下さい。
(2011.4.29)
意外な話 【漢委奴国王印の鈕は駱駝?】(57年)-金印の取っ手は蛇ではなかった-
金印「漢委奴国王」の鈕(ちゅう・印のつまみの部分)は駱駝(らくだ)を蛇に改造したものではないかという説があるようです。言われてみれば蛇というよりは駱駝に近い様な気がしないでもありません。
中国の各王朝は、地方を治める王族や臣下、豪族部族に印綬を下しますが、このとき相手によって鈕の種類を選んで与えます。王族には「亀」の鈕(亀鈕・きちゅう)、北方の民族には「駱駝」の鈕(駝鈕・だちゅう)、南方の民族には「蛇」の鈕(蛇鈕・じゃちゅう)をといった具合です(福岡市博物館の説明を参考)。
この中で「蛇鈕」の王印は「漢委奴国王」印と中国・雲南省の「てん王之印」の二つしか発見されていません。
「てん王之印」の鈕は明らかに蛇の形をしているのですが、「漢委奴国王」の鈕はボテッとした感じで、ぱっと見では蛇がトグロを巻いた様なイメージがなかなか湧きません。
これは当時の金印彫刻家が北方民族向けの在庫(既存)の「駝鈕」の印を急遽、蛇の形に改造したものではないかといった事が考えられているです。駱駝の突き出した頭の部分を180度背中側に反らせ下あごの部分に蛇の目玉を刻印した。金印の写真を眺めているとそういった情景が思い浮かびます。
ただ、この再加工につての歴史学者の見解は、駱駝の頭部を外して切断部分を滑らかにし蛇の目玉を刻印したというものです。中国で発見された駝鈕の写真を確認してみると駱駝の頭部が結構大きいのでこの見解の方が正しいのかもしれません。 自分の目で確かめたい方は福岡市博物館のページ(http://museum.city.fukuoka.jp/gold/)で写真をご参照ください。
わかっていない事 【金印の「委」は「倭」の略字?】-委字は倭字を略したる者と相見えん!?-
 | 亀井南冥「金印鑑定書」 |
「委字は倭字を略したる者と相見えん」これは亀井南冥の金印鑑定書に書かれる言葉になります。『「漢委奴国王」印の「委」という文字は「倭」の人偏を略したものと思われる』といった意味になります。
金印の事が記載される後漢書には「建武中元二年倭奴國奉貢朝賀(西暦57年 倭の奴国 貢を奉じて朝賀す)」と書かれており、南冥はこの文章と志賀島で発見された金印を関連付けるものの、金印に刻まれる「委」という文字と後漢書に記される「倭」という文字をどうつなげるか戸惑い、最終的に冒頭に記したにんべん省略説に行き着いたものと想像され、この説は現在も主流となっています。
「委」の読み方に関してはこれまで学者や郷土史家、一般の歴史ファンなど様々な人々が取り組まれ、「委」と「奴」をつなげて委奴国(いとこく・伊都国/現在の糸島市)と読む説などもあるようです。ただ中国で発見される印の文字構成は「王朝名」+「民族名」+「部族や国名」となっており、この事より福岡市博物館のサイトでは「漢委奴国王」は「漢の倭の奴国王」との読み方が主流であるといった説明がなされています。
わかっていない事 【「漢委奴国王」の読み方は?】-「倭」は「委」から生まれた新漢字?-
 | 亀井南冥「金印鑑定書」 |
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。
この説でひとつ引っ掛かるのは「倭」が「委」になっていることです。一般的に、これは「イ(にんべん)」が略されたものと考えられているのですが、実際「倭」という漢字が誕生したのがどうも金印が製造された後の事ではないかといった事が考えられるのです。
具体的に説明すると、中国統一後の時代は
秦(BC221-BC206)
↓
漢(BC206-8)
↓
新(8-23)
↓
後漢(25-220)
↓
三国時代(220-280)
↓
晋(265-420)
↓
五胡十六国(304-439)
↓
南北朝(宋・北魏)(439-589)
と変遷するのですが、この中の後漢の初代皇帝の時代に金印は送られています。そして「倭」という文字が載る書物、三国志の「倭人の条」は晋の頃に書かれ、金印の事が記載される「後漢書」は南北朝時代の南朝・宋の時代に書かれています。この二つの書以外にも「論衡(ろんこう)」というものがある様ですが、こちらも金印が奴国王に送られた同時期か、それ以降に書かれたものの様です。また「漢書」にも「倭」は記載されているようですがこちらも後漢に書かれた書物になります。このように金印が製造される以前(西暦57年以前)に「倭」という文字は見当たらない様なのです。(調査不足かもしれません。もしあったら申訳ありません。)
またネットで調べたみたのですが、「倭」という漢字は「日本」ということ以外の意味を持っておらず、東方の島国を表すために創作された文字に違いない様です。これ等の事より、「倭」は後漢以降に派生した文字の様な気がしてならないのです。もしかしたら公文書を管理する後漢代の学者が「委」に単に「イ(にんべん)」を付け足して作った新漢字なのかもしれません。
この様な考えからすれば、「倭」を略して「委」と刻んだのではなく、金印に刻まれた「委」が先で、何らかの誤解が起こり「イ(にんべん)」を付け足したという順番が考えられるのです。
以下に根拠のない想像のみの説を書いてみます。
金印「漢委奴国王」は「漢の委任した奴国王」という意味で彫られたものでしたが、その判を見た後漢の歴史家が「委」を民族名と勘違いし、文章に頻繁に使用される「委」を民族の固有名詞として扱うのは差し障りがあると考え「イ(にんべん)」を付加し当て字を作ります。後代の史家はこれに倣い、日本の事を「倭」と記述したのでは?
こんな事を推測していると「カン・イ・ナコクオウ(漢の委任した奴国王)」という読み方も一説として有りなのではと感じるのですが・・・。
元の時代に書かれた宋史にも「自後漢始朝貢(後漢に始めて朝貢してから)・・・」と書かれ、少なくとも元の時代の史家は中国と倭の関係は後漢の時代からと認識していたようです。後漢以前に公式な接点がなかったと言う事は「倭」という文字は後漢以降に派生した可能性が少なくない事を物語っているのかもしれません。
たぶんこの説は、素人歴史ファンから過去に挙がっているのかもしれません。正誤は別にして普通に読めばそう読めてしまうのですから・・・
写真は福岡市博物館に展示される亀井南冥の「金印鑑定書(複製)」です。ここには『唐土し書。本朝を倭奴国と省之は委字ハ倭字を略したる者と相見えん』と書かれ、内容は『中国の史書には日本を倭奴国とする。この金印の「委」は「倭」を略したものと考えられる。』といった意味だと思われます。
わかっていない事 【親魏倭王印はどこにある?】-もう一つの金印が発見されれば!!-
西暦238年、魏の曹叡(曹操の孫)は朝貢した倭王の卑弥呼に対し「親魏倭王」の称号を与え金印を授けます。中国の史書では倭国が受けた金印はこの「親魏倭王」印と後漢の時代に送られた「漢委奴國王」印の二つだけになり、後者は江戸時代に現在の福岡県の志賀島で発見されています。そしてもし前者の「親魏倭王」印が発見される事になれば、その地が幻の邪馬台国である可能性が非常に高くなるのです。
三国志の倭人の項ではこの「親魏倭王」印の事が次のとおり書かれています。
今以汝為親魏倭王假金印紫綬装封帯方太守假授汝
今、汝(卑弥呼)を以って「親魏倭王」と為し、金印紫綬を装封(包装封印)して帯方太守へ送り汝に与える
ここには「親魏倭王と為し」と書かれているのみで、この金印に「親魏倭王」と刻印されていたかは不明です。ただ「親魏倭王」と任命されたからには刻印も「親魏倭王」であった可能性は低くはないと思われます。もしもそうであったならば、印の文字構成が「王朝名」+「民族名」+「部族や国名」という定石には例外があるとなるわけで、刻印の文字には王朝、民族、部族、国名の他に形容詞や動詞が入る可能性が出てくるのです。
もし「親魏倭王」印が発見されることがあれば、邪馬台国の所在地ばかりではなく、「漢委奴國王」の読み方にも大きな影響を与えるのかもしれません。
しかし三国志「親魏倭王」印の記事には假(仮)と書かれており、一旦は帯方太守の劉夏の元に送られたのはまずは間違いなのでしょうが、その後に邪馬台国まで無事に届けられたのかは、残念ながらそこには記載されていない様です。
わかっていない事 【金印はなぜ志賀島で発見された?】-奴国王の思惑は?-
江戸時代より金印には贋物説があるですが、その説の根拠の一つに奴国の中心地から遠く離れた志賀島から見つかった不自然さが挙げられています。確かに漢の皇帝より奴国王に送られた金印が、奴国の勢力範囲だったとはいえ、なぜ10㎞近くも離れた島から発見されたのか、誰もが不思議に思うのは自然なことなのかもしれません。
ところで金印に刻印された「漢委奴国王」という文字は「漢の倭の奴の国王」と解釈されるのが通説となっています。ちなみにこの時代より約200年後には、卑弥呼が魏の曹叡(そうえい・曹操の孫)より「親魏倭王」印を送られています。こちらは「魏と親しい倭王」という意味で倭国を独立した国と認めているのですが、「漢に属する倭国の中の奴国王」となると、倭国全体も奴国自体も漢の一部とみなす表現で奴国王としてはとても承服できない内容であったに違いありません。
仮にもしこの印を奴国王が使用するようなことがあれば、倭国内の他の国々からも批判の声が上がったでしょうし、倭国よりの独立を疑われそれを理由に攻められる可能性も皆無ではなかったでしょう。そんな事情で、奴国王はこの友好の品の取り扱いに苦慮したと思われます。
江戸時代に金印贋物説を唱えた派閥の中には「わが国を清国の領土とするような金印などいっそのこと鋳潰してしまえばよい!」と荒っぽいこと言い出す人も現れたようですが、奴国王も同様なことを思ったのかもしれません。さすがに友好の品を鋳潰す事までは考えなかったのでしょうが、金印を極秘裏に奴国の片隅の島に封印してしまった。といったシナリオも一つの説としておもしろいのかもしれません。
今から約2000年前、使者が持ち帰った金印を前に奴国王とその臣下たちはどのような問答を繰り広げたのか、今となってはその様子を想像するしかありません。
わかっていない事 【金印はなぜ志賀島で…?その弐】-大夫の思惑は?-
「金印はなぜ志賀島で発見された?」で金印が志賀島で発見された理由を「金印の刻印が奴国王にとって都合の良くないものだったため」と記述しましたが、抽象的な疑問には幾通りもの説があって良いと思いますので、もう一つの説を載せようと思います。(以下では内容を解かり易くするため「奴国」を「那国」と替えて記述します。)
西暦57年、那国王の命で大夫(たゆう・官職名)は後漢に派遣されますが、後漢の光武帝は朝貢品の返礼に「漢委奴国王」と刻印された金印を送ります。
大夫はこの金印を携え帰国しますが、その帰路に金印を那国王に提出すべきか迷います。
「漢委奴国王」の意味は「漢の委する奴国王」で那国王は漢の皇帝に任命された事になってしまいます。また、それに輪を掛けるように「那国」の「な」が奴隷の「奴」に書き換えられているのです。これを提出してしまうと、那国王より怒りを買うのは目に見えています。
そこで大夫は那の津の港に入る直前に志賀島付近に停泊し、信用のできる部下たちと相談の上、志賀島に小船で上陸し極秘裏に金印を埋め隠します。その後、金印は忘れられ、1700年後の江戸時代に農民によって発見された。といった筋書きは余りにも想像力がたくまし過ぎでしょうか?
この頃より約500年後の飛鳥時代に遣隋使の小野妹子は「日出づる処の天子、書を日没する処の天子に致す。つつがなしや」といった書状を隋の皇帝に届け、皇帝の機嫌を損ねます。皇帝は返書を小野妹子に託しますが、妹子はこの返書を朝廷に提出する事はありませんでした。想像なのですが、大夫もこの小野妹子と同じ状況の中にあったのかもしれません。
余談 【福岡市博物館「滇王之印」複製品】
福岡市博物館には、「漢委奴国王」印と同じ蛇鈕(蛇を象った取っ手)を持つ金印「滇王之印(てんおうのいん)」の複製が展示されています。
この金印は1957年に中国雲南省石塞山第6号墓で発見された金印で、次のような説明がされています。
[福岡市博物館の説明文]
1957年に中国雲南省石塞山で発見された蛇鈕の金印。前漢の「史記」西南夷列伝に「元封2(B.C.109)年、武帝は滇族の王“離難”を攻め、降伏した離難に王印を与えた」とある。つまみに蛇をかたどった金印は「漢委奴国王」と「滇王之印」の2点しか無く、史実を証明する貴重な考古学資料である。
「滇王之印(てんおうのいん)」が発見される以前の金印偽物説では「鈕(ちゅう・把手部)が蛇の金印は中国で発見されておらず、『漢委奴国王』印の鈕が蛇なのはおかしい」といった事に言及していましたが、この発見でその贋作説の疑問は解消される事となりました。
(2016.8.13)
一夜漬け福岡史 【弥生・古墳時代】-中国文献に記される奴国と三国朝鮮へ-
 | 岩戸山古墳の「石人石馬」 |
西暦57年、中国後漢の皇帝より奴国王に金印が送られますが、これが文献に残る初めての福岡に関する出来事です。
それから約200年後に書かれた三国志の「倭人の条」には邪馬台国への道筋が記載されその途中の国として
伊都国(いとこく・糸島市)、奴国(なこく・福岡市)、不彌国(ふみこく) など福岡県内の都市が紹介されています。
この三国志「倭人の条」は後世の日本人より「魏志倭人伝」と呼ばれ、邪馬台国所在地論争の元となりました。
西暦300年代前後には倭国は共和国内の各国を帰属させ中央集権国家に移行します。
奴国もこの中央集権の波に呑まれ、この頃に倭国の一都市になったものと思われます。
九州北部を吸収した倭国は、次に三国時代の朝鮮へ渡り新羅、百済の間の伽耶(かや・小国家が並立する地域-任那-)に駐屯します。
倭国軍は伽耶諸国や百済と連携し新羅や高句麗と戦いますが、西暦500年代に入った頃より倭国の朝鮮への影響力は徐々に弱まり、
大伴金村が百済に「任那四県の割譲」(512年)を行い。
また九州では朝鮮出兵の兵役負担の不満により磐井(いわい)が「磐井の乱」(528年)を起こします。
そして新羅が伽耶諸国を併合した西暦500年代中頃までには朝鮮半島から撤退したものと思われます。
(2012.11.27)
一夜漬け福岡史 【江戸時代】-「黒田騒動」と名著の刊行-
 | 金龍寺の「貝原益軒像」 |
二代藩主の黒田忠之(ただゆき)は自分を藩主の座に就けた栗山大善と不仲となり修復不可能となると、
遂に栗山大善より幕府へ「謀反の意思あり」と訴えられます。
幕閣は関ヶ原以来の徳川家と黒田家の関係を配慮し、栗山大善を南部藩預かり、
忠之の寵臣を高野山への追放し事を収め、黒田藩の改易は回避されました。
因みにこの事件は「加賀騒動」、「伊達騒動」と共に江戸時代の三大お家騒動と呼ばれています。
江戸時代の中盤には文化の隆盛を迎え、貝原益軒(かいばらえきけん)の「養生訓」「筑前国続風土記」「大和本草」、
宮崎安貞(みやざきやすさだ)の「農業全書」などの名著が福岡より世に出ます。
そして1784年には志賀島より「金印」が発見され、福岡藩校の甘棠館(かんとうかん)館長・亀井南冥(かめいなんめい)により
「後漢書(ごかんじょ)」に記載される後漢の皇帝が奴国王に送った「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印と鑑定されます。
これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印になります。
(2012.11.27)
福岡史伝・江戸 【寛政異学の禁】(1790年)
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西学問所(甘棠館)跡の碑 |
各地で藩校が開設された田沼意次の開放政策時代を経て松平定信は1787年より「寛政の改革」を行います。
質素倹約、文武奨励を柱とする政策は学派統一の方針にも向かい、儒学の講義を朱子学に絞り陽明学や古学などの儒学を禁じます。これを「寛政異学の禁」(1790年)と言います。これは元々幕府内だけの方針でしたが、各藩もこれに倣い朱子学に重き置くようになります。
この頃、福岡藩では貝原益軒系統の朱子学を学んだ竹田定良が館長を務める修猷館と前身を私塾とし徂徠学派・亀井南冥が館長に就く甘棠館の二つの藩校があり、学閥間でしのぎを削る状況でした。しかし、この「寛政異学の禁」で甘棠館館長の南冥はその座を追われ(1792年)、主導権は修猷館が握ることとなり、その6年後には火災で校舎を失った甘棠館は廃校となり生徒は修猷館へ編入されます。館長だった亀井昭陽(南冥の長男)は解任され一般藩士として狼煙台の警備の仕事に就いたと言われます。しかし、その後に昭陽は私塾「亀井塾」を開き多くの人材を育てます。幕末維新期には亀井学派から国事に奔走した気骨のある人物が輩出し、甘棠館時代からの広瀬淡窓は日田に戻り私塾「咸宜園(かんぎえん)」を興し後の著名な学者や技術者を育ています。
ところで儒学の正統派とされる朱子学の修猷館に対し、亀井南冥の徂徠学派(古学)とは、「儒学を学ぶためには体系化された参考書は不要で四書五経などの原典を直接読めばよいではないか」といった考え方が基本となっています。古学というと文字からして非常に頑固で取っ付き難そうなイメージを受けるのですが、実は「原点を知り、自分なりの発想をしよう」という考え方の様です。
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東学問所(修猷館)跡の碑 |
この時代の学閥問題も今となってはもう200有余年昔の事となるのですが、官僚を育てる修猷館。起業家を育てる甘棠館。当時の二つの藩校の校風はこんな違いだったのかもしれません。
余談になりますが、現在の福岡市博物館には「修猷館」と「甘棠館」の扁額の写真が並べて展示してあります。そして修猷館は福岡の名門県立高校として今もその名を残しています。
福岡人物伝 【奴国王(なこくおう)】
倭国の最南端にあった国の王で、西暦57年に「大夫(だゆう)」という役職の使者を後漢に派遣します。 これに対し当時の皇帝であった光武帝は金印を送りますが、これが江戸時代に志賀島の田地より掘り出され、 現在は福岡市博物館に所蔵されている「漢委奴国王(かんのわのなのこくおう)」印になります。
福岡人物伝 【大夫(たゆう)】
西暦57年、奴国王の命により後漢に派遣され金印を持ち帰った人物です。中国・南北朝時代の432年頃に記された「後漢書」には「倭の奴国、貢物を奉って朝貢す。使者は大夫と自称す。」とのみ記載されています。大夫とは人名ではなく役職の事の様で、派遣された人物の氏名は伝わっていないようです。
福岡人物伝 【亀井南冥(かめいなんめい)】
大阪で儒学や医学を学び1785年に福岡藩西学問所・甘棠館(かんとうかん)の館長となります。 この頃に志賀島で発見された金印を漢の光武帝より奴国王へ送られた「漢委奴国王印」と鑑定します。 これが現在、福岡市博物館に所蔵される金印です。
甘棠館は後に廃校となり学生は東学問所の修猷館に統合されますが、 私塾亀井塾として亀井学派は存続し門下生から平野國臣や高場乱、広瀬淡窓などを排出しています。 広瀬淡窓は天領日田に「咸宜園(かんぎえん)」を創設した人物でそこからは高野長英、大村益次郎、上野彦馬などが出ています。
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