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福岡史伝・戦国
 【博多町割り】(1587年)

櫛田神社の「博多塀」
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資金を提供したものと思われ、 「博多町割り」後は、現在の大博通りの東側を宗室町、西側を宗湛町と呼んでいたそうです。 秀吉としては博多を南蛮や明との交易の一大拠点と考え、博多復興には力を入れたと思われます。 もちろん博多の商人たちの思惑もこれと一致し博多は大きく発展してゆくはずでした。しかし 秀吉が没すると徳川家康が1603年江戸幕府を開きます。江戸幕府が鎖国政策をとると、 海外貿易の役目は長崎に移り、博多商人の活力は失われていくことになるのです。
ところで、奈良屋町にあった神屋宗湛の屋敷跡は現在、豊臣秀吉を祭る「豊国神社」となっており、 また櫛田神社には嶋井宗室屋敷跡にあった「博多べい」が移築展示され、 当時の復興の様子を偲ぶことができます。
(2011.7.3)






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毛利氏の筑前侵攻(1557年~)【福岡史伝・戦国】
厳島で陶晴賢(すえはるかた)を破り、大内義長を長門で自刃させた毛利元就は次に、大内氏の支配した貿易港・博多を取り戻すべく豊前、筑前の攻略を開始、まず大友氏へ不満を持つ豊前、筑前、肥前の豪族へ密使を送り反大友の動きを扇動します。1557年、これに呼応したのが秋月(朝倉市)の秋月文種と五ヶ山(佐賀県鳥栖.....

浦ノ城跡(太宰府市連歌屋)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
現在「浦ノ城跡」は住宅地となっており、この案内板はその児童公園内に立っています。 足利尊氏が「九州落ち」で九州に上陸した直後、菊池武敏が少弐氏の「有智山城(うちやまじょう)」を攻め落します。 その数日後の「多々良浜の戦い」で足利尊氏、少弐頼尚の軍が菊池武敏軍を撃ち破り筑前.....

博多町割り(1587年)【福岡史伝・戦国】
1587年、島津氏を降し九州を平定した豊臣秀吉は筑前に戻り 「多々良浜の戦」(1569年、大内氏対大友氏)や「島津氏侵攻」(1586年、島津氏対大友氏)の戦いにより、 荒廃した博多を復興するため1587年「博多町割り」を行います。 博多の大商人、神屋宗湛と嶋井宗室もこの博多復興に資.....

多々良浜の戦い(1336年)【福岡史伝・南北朝・室町】
1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受けますが、この数日後、肥後の菊池武敏と阿蘇惟直が数千の軍を擁し大宰府に攻め込み、.....

元弘の乱-博多-(1331年)【福岡史伝・鎌倉】
後醍醐天皇の倒幕計画が漏れ拘束されたことにより「元弘の乱」が起こります。通常は首謀者が拘束されると乱は収束するのですが、 この時は、後醍醐天皇の親王や意を受けた武将が各地に立ちます。 これにより情勢が不安定になって来ると、鎮西探題(博多)の北条英時は九州の御家人を博多の探題に呼び集め.....

戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

南北朝・室町時代(「多々良浜の戦い」から南北朝の動乱へ)【一夜漬け福岡史】
1336年、後醍醐天皇軍との戦いで不利に陥った足利尊氏は、いったん京都から九州に落ち態勢を立て直そうとしますが、九州に上陸早々、 肥後より攻め上って来た菊池武敏の軍と博多より4キロ程北東の多々良浜で対決することになります。 決戦を前に尊氏は多々良川の対岸に布陣する敵の大軍を目の当たりにし.....

落武者尊氏、筑前で復活!(多々良浜の戦いは多勢に無勢?)【意外な人物伝】
後醍醐天皇軍との戦いで形勢不利となった足利尊氏は一旦京都から落ち九州へ向かいます。 1336年2月下旬に九州に入りますが、それも束の間3月2日には、肥後から攻め上ってきた天皇方の菊池・阿蘇軍と博多東方の多々良浜で戦うことになります。 尊氏は九州に上陸して日も浅かったため兵を集めることもできず、少.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

小早川隆景(1533年~1597年)【福岡人物伝】
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。.....


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名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

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福岡史伝・平安
 【筑後竹野の戦い】(1183年)

原田種直の屋敷があった安徳台
木曽義仲に都を追われた平家一門は大宰府に入りますが、都府楼は鎮西反乱で焼け落ちていたため安徳天皇は原田種直の屋敷に入ったといわれます。そのためすべての平家の人々が屋敷に入り切れず、末端の人々は野宿同然の生活を強いられたようです。
そんな状況の中、後白河法皇の院宣を受けた豊後の緒方惟義は平家追討の動きを示し、平家に九州より出ていくよう勧告の使者を送ります。これに対し平家は源季忠と平盛澄を将に立て、兵3000を向わせます。平家と緒方の両軍は筑後の竹野(久留米の10㎞ほど東方)で戦端を開きますが、緒方の軍は3万の兵で雲霞の如く押し寄せたため、平家の軍はこれを支えきれず大宰府へ敗走します。
平家物語ではこの戦ののち「やんごとなき女房達、袴の裾を取り・・・水城の戸を出でて、かちはだしにて我先に先にと箱崎の津へこそ落ち給え。折節降る雨、車軸のごとし。吹く風、砂をあぐとかや。落つる涙、降る雨、分きていづれも見えざりけり。」という有名なくだりに入っていきます。









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スポットライト人物伝


【月形洗蔵(つきがたせんぞう)】
(1828年~1865年)


儒学者の家庭に育ち、王政復古の思想を掲げ参勤交代の不要を藩主黒田長溥に建白しますが、 これが長溥の怒りを買い蟄居させられます。しかし三条実美ら五卿福岡遷座の際には罪を許され、 下関まで五卿を出迎えに行くことを命じられています。



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