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2022.3.6

【記想録】兵とは国の大事なり

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
倉廩(そうりん)実(み)ちて礼節を知り、衣食足りて栄辱を知る
管子



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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!
名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡
福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々
意外な話…それってホント?意外すぎる話。
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余談…ひとり言的な話です
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はじめに…お願いと参考書






福岡史伝・戦国
 【岩屋城の戦い】(1586年)

岩屋城の碑
1578年「耳川の戦い」(日向)で島津義久に大敗した大友宗麟は、徐々に九州北部へ追い詰められていきます。 8年後の1586年4月、島津を防ぐ手立てをなくした大友宗麟は、大阪城で豊臣秀吉に謁見し救援を求めます。 秀吉はこれに応え、仲裁を試みますが、九州統一を目前にした島津義久はこれを拒否し、従弟の島津忠長を筑前に侵攻させます。 この島津の対応に秀吉が激怒したか、ほくそ笑んだかは想像するしかありませんが、 とにかくこの時点で秀吉は徳川家康という最大のライバルの懐柔中で、早急な対応ができない状態でした。
そして筑前では、大友宗麟の家臣、高橋紹運が大宰府の岩屋城で、将兵763名と共に島津軍5万を迎え撃ちました。 戦いは壮絶を極め、城攻めの島津軍は3千以上の犠牲者を出したといわれます。 そしてついに攻撃開始より14日目の7月27日、岩屋城は落ち、紹運と将兵は共に玉砕しました。
島津軍は続いて紹運の次男、統増が守る宝満城を開城させ、長男、立花宗茂の立花山城へ向いました。 しかし宗茂の守る立花山城は堅く、攻め切れずにいたところへ、「秀吉軍の九州上陸」の報を受け、島津軍は南へ向けて撤退を開始します。 この日が8月24日で岩屋城玉砕の約1ヶ月後のことでした。


紹運は岩屋城の戦いで、敵将より降伏を勧められますが、「もし貴殿が攻められる側であったならば、命を惜しみ忠義を捨てて降伏されるのか?」と一蹴にしたそうです。また九州平定後、秀吉は紹運の忠義を「戦国の華」と褒め称えたそうです。人を褒める事が好な人だったようですが、岩屋城の戦いの様子を聞き知った秀吉の心からの褒め言葉だったと想像したく思います。









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スポットライト人物伝


【高橋紹運(たかはしじょううん)】
(1548年~1586年)


反旗を翻した高橋鑑種(たかはしあきたね)が筑前を追われると、 大友宗麟は重臣の吉弘鑑理(よしひろあきこと)の次男を高橋家に送り込み岩屋城と宝満城を守らせます。 これが後の高橋紹運です。島津氏の筑前侵攻の際は、763名の将兵と共に岩屋城に篭もり、数万の敵を相手に半月程持ちこたえますが、 遂に力尽き玉砕します。 しかし紹運の精神は死なず息子・立花宗茂へ引き継がれます。



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