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2021.5.5

人物伝・毛利勝永を追加しました

2021.5.1

旧跡臼井六郎の生誕地を追加しました

2021.4.30

「不落の柳川城炎上す」を追加しました

2021.4.29

「二卿事件」を追加しました

2021.4.27

「唐原・落人の里」を追加しました

2021.4.26

「今津元寇防塁」を追加しました

2021.4.25

「宮崎安貞書斎」を追加しました

2021.4.19

「原鶴温泉の歴史」を追加しました

2021.4.18

「最後の仇討」を追加しました

2021.4.15

「井上伝の胸像」を追加しました

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
算多きは勝ち算少なきは勝たず
孫子



目   次
福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!
名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡
福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々
意外な話…それってホント?意外すぎる話。
よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!
一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ
福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要
名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です
リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。/td>
余談…ひとり言的な話です
更新履歴…アップした日付
訂正履歴…間違い直しの履歴です
はじめに…お願いと参考書






福岡史伝・飛鳥
 【壬申の乱-筑紫-】(672年)

天智天皇が崩御すると、その半年後の672年6月に、吉野で出家していた天皇の弟・大海人皇子(おおあまのおうじ)が東国に向かい、挙兵の動きを示します。 時の都の大津では不穏な空気が流れ人々は避難の準備を始めます。 天智天皇の子・大友皇子(おおとものおうじ)はこれに対し、地方官や豪族たちに援軍を出させるために使者を向かわせるのですが、その際に「筑紫大宰と吉備国守(きびこくのかみ)の二人は大海人皇子に近い人物なので、命令に従わなければ、その場で斬るように」と使者へ指示をします。
使者は吉備に行き、吉備国守の刀をはずさせておき、命令書を渡す振りをして斬り伏せます。 次に筑紫では別の使者・佐伯連男(さえきのむらじおとこ)が筑紫大宰の栗隈王(くるくまのおおきみ)に兵を出すよう命令します。しかし栗隈王は「筑紫の兵は元々、外敵への備えで内賊を抑えるための兵ではありません。命に従って兵を出せば国が無防備となり、外敵より攻め込まれる事もありえます。そうなってからでは、私を何百回 斬刑に処すとも、後の祭りです。」と援軍を断ります。 佐伯連男は大友皇子の命に従い栗隈王を斬ろうとしますが、栗隈王の両脇には大刀を佩いた二人の息子が立ち離れようとしなかったため、任務を果たせず筑紫を去りました。
この「壬申の乱」はひと月程で終わります。戦いに勝利した大海人皇子は飛鳥に移り、翌年2月に即位の儀をとり行います。 これが天武天皇です。 そして栗隈王は乱の3年後に兵政長官に任命される事になります。


この戦いに敗れ自害した大友皇子は、正式に即位した記録がなかったため歴代天皇に数えられていませんでしたが、明治天皇によって諡号を送られ弘文天皇とされました。
(2014.10.18)






スポットライト人物伝


【藤原隆家(ふじわらたかいえ)】

(979年~1044年)


平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性格と爽快な生き方から後世の人からもっと注目されてよい人物なのですが、 もうひとつ注目されないのはその事件がネックになっているのかもしれません。





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