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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

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はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず
孫子





福岡史伝・戦国
 【高橋と筑紫の和約】(1586年)

山頂に宝満城址がある宝満山
大内氏が滅亡した後の「筑前騒乱」は、毛利氏の二回の筑前進行(1557年、1567年)及び、大友氏の耳川での大敗(1578年)を起因として三度起こっています。筑前南東部(朝倉市秋月)に城を置く秋月氏と肥前南東部(鳥栖市北部)に割拠する筑紫氏は、この三度の「筑前騒乱」全てにおいて大友氏と反目し戦いを挑んでいます。
しかし1586年、大友宗麟の要請により豊臣秀吉が九州に派兵の動きをみせると、筑紫広門は一転、大友の将・高橋紹運と和解の道を選びます。紹運としては遺恨のある相手でしたが、破竹の勢いで北上する島津勢の面前に、味方の勢力が立ちはだかる事を考えると、他の選択はありえなかったのでしょう。
同年4月、両者は岩屋城で高橋家嫡男・統増と広門の娘の婚儀をとり行い、また重臣の子息をお互いに入れ替え、和んだ雰囲気の中、和議は整います。
これに驚いたのは秋月種実です。この厄介な同盟を島津へ知らせる使者を立て早期の侵攻を促します。
そして7月6日、島津の軍は筑後北部に現れ高良山(久留米市市街地の西部)に陣を敷き、8日には広門の城を激しく責めたため広門は降伏、囚われの身となり、島津軍の岩屋城攻めは時間の問題となります。
紹運は嫡男・統増と妻室、筑紫の家臣団、家中の足軽を要害の宝満城に籠もらせ、自らは居城を捨てるのを潔しとせず岩屋城で島津軍を迎え撃ち、壮絶な戦いを繰り広げた末に将兵たちと共に玉砕します。
その後、広門は秀吉の九州上陸で動揺する島津の兵の隙を突き、幽閉されていた筑後の大善寺を脱出し自領に帰り兵を挙げます。

高橋紹運と対照的な筑紫広門の一連の行動をどう受け止めるかは人それぞれでしょが、目前に迫る大きなリスクを背負いながらも、一世一代の大勝負に打って出て、自らの前途を切り開いた広門の生き様には紹運と違った意味で潔さを感ぜざるを得ません。









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スポットライト人物伝


【安徳天皇(あんとくてんのう)】
(1180年~1185年)


木曽義仲が京都に攻め上ると、安徳天皇は平家一門に守られ筑紫大宰府へ逃げ落ちます。 しかし、大宰府も安住の地ではなく緒方氏に攻められ四国屋島へ逃れます。 その後、「一の谷の戦い」、「屋島の戦い」と源義経の軍に破れ、ついに1185年4月「壇ノ浦の戦い」で平家軍が壊滅すると、 僅かに五歳の安徳天皇は二位の尼(平時子、外祖母で平清盛の妻)と共に入水し亡くなります。 ところで平家一門が都落ちで大宰府に入っ.....[全文を表示]



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