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戦国時代(少弐氏から大友氏へそして「岩屋城の戦い」)【一夜漬け福岡史】
筑前で少弐氏の抵抗を封じ、肥前に追い詰めた大内義隆ですが、1551年には重臣の陶晴賢に滅ぼされ、 筑前には豊後の大友義鎮(宗麟)が勢力を伸ばします。 しかし、今度は陶晴賢を倒し大内氏の地盤を取り込んだ中国の雄・毛利元就が侵攻してきます。 これを大友宗麟は多々良浜で迎え撃ち対峙します.....

小早川秀秋(1582年~1602年)【福岡人物伝】
豊臣秀吉の正妻ねねの甥にあたり、義父・小早川隆景の隠居に伴い入れ替わりで筑前の名島城に入ります。 「関ヶ原の戦い」では西軍から東軍へ寝返り、勝敗に大きく影響を与えたといわています。 戦後は加増され岡山に移りますが、「裏切り」の汚名を拭いきれず家臣とともに苦悩の日々を送ったと想像されます。 そして二年.....

小早川隆景(1533年~1597年)【福岡人物伝】
毛利元就の三男で、戦国時代の「多々良浜の戦い」では大友氏の猛将・戸次鑑連(べっきあきつら)とも戦っています。 秀吉の九州平定後は北部九州を任せられ、博多の北方5㎞の多々良川河口に名島城を築きます。 その後、養子の小早川秀秋(秀吉の正妻・ねねの甥)に名島城を譲り、自らは広島三原に戻り余生を過ごします。.....









目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

2022.12.25

【記想録】是れを過ちと謂う

2022.12.4

【記想録】冷眼にて人を観る

2022.11.5

【記想録】人を責むる者は・・・

2022.10.15

【記想録】馬耳東風って李白の言葉!?

2022.9.18

【記想録】小敵の堅は大敵の擒なり

2022.9.13

【記想録】怒りを以って師を興すべからず

2022.8.27

【記想録】佐々木小次郎の経歴

2022.8.1

【記想録】完戸何某との決闘

2022.7.24

【記想録】夢想権之助の挑戦

2022.7.3

【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
兵とは詭道(きどう)なり
-戦いとは騙し合いで何が起こるかわからない、十分に注意が必要である-    
孫子





Fアイテム
 【博多が初の「透頂香」とは!?】(1369年)-「ういろう」とはブランド名?-

妙楽寺「ういろう伝来の地」碑
「陳員外郎という者が1369年、元代末の乱をさけ博多に移住し、その後上京して将軍義満に種々の薬を献上した。義満はとりわけ透頂香(とうちんこう)を気に入り陳員外郎に京都西洞院に邸宅を賜ったが、その子孫が代々久しく博多と京都に住んで透頂香の製造法を伝える事となった。しかしいつの頃からか博多の家は絶えてしまった。また小田原の透頂香は、北條氏政の時、陳員外郎が家僕を小田原へ遣わし、透頂香を売らしたのが始まりである。透頂香は自家製の薬のため外郎(ういろう)と名付けられ、製造方法はこの二家より外に伝わる事はなかった。」

以上が貝原益軒の「筑前国続風土記」巻の四 博多の末項に記載される透頂香の内容です。 透頂香は外郎(ういろう)と記載されるもののお菓子の「ういろう」ではなく、元々は消臭剤で仁丹の様な形状をした薬だったようです。小田原では現在でも万能薬として透頂香が「ういろう」という名で売られているそうです。たぶん「ういろう」とは製品名ではなくブランド名だったのかもしれません。

そして益軒は記事の最後を「透頂香を日本にて製せしは、博多を初とす。」と締めています。









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スポットライト人物伝


【仲哀天皇(ちゅうあいてんのう)】
(?~362年)


日本武尊(やまとたけるのみこと)の息子で熊襲征伐に意欲を燃やしますが橿日宮で突然崩御します。 崩御の理由は后の神功皇后の神託に従わなかったためとも、熊襲の矢に当たったためとも言われていますが、 歴史学上では実在しなかったという説もあるようです。



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