2011年6月4日 / 最終更新日時 : 2023年6月20日 kento 幕末・維新 五卿の大宰府入り (1865年) 会津と薩摩の軍が1864年「禁門の変」で長州軍を破ると、幕府は長州征討の勅命を受け兵15万を広島に集結させます。 これに長州藩は恭順の意を表し、三家老を切腹させ五卿を他藩に送るという条件に従いますが、この五卿を引き受けた […]
2011年5月20日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 奈良 鑑真和上来日 (753年) 日本の留学僧から来日を懇願された唐の高僧・鑑真は出国を決意しますが、暴風に遭遇したり、身を気遣う弟子や玄宗皇帝の反対で渡航の失敗・中止を繰り返します。そして11年の苦難の末、6回目の渡航でようやく来日を果たし、筑紫の観世 […]
2011年5月18日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 奈良 戒壇院建立 (761年) 753年、渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下 […]
2011年5月14日 / 最終更新日時 : 2023年6月12日 kento 福岡史伝 文永の役 (1274年) 1274年10月5日、元軍は対馬を手始めに、壱岐、唐津と魏志倭人伝に書かれたとおりの道順で殺戮を繰り返しながら侵攻してきました。その数、兵3万、軍船900といわれています。 19日には糸島半島東部の今津に姿を現し、一部の […]
2011年5月14日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 福岡史伝 白村江の戦い (663年) 倭国が朝鮮半島から撤退して約百年後の、660年百済は新羅・唐の連合軍の攻撃を受け滅亡します。百済の遺臣の鬼室福信は百済復興のため倭国に救援依頼すると共に、倭国に滞在する百済の王子豊璋の帰国を求めます。 これに応えた中大兄 […]
2011年5月8日 / 最終更新日時 : 2023年6月15日 kento 南北朝・室町 筑後川の戦い (1359年) 「針磨原の戦い」から6年、京都で足利尊氏が没すると、勢いづいた南朝方とこれに抗する武家方(北朝方)が筑後川の北側で激突します。これが、地元では「大原合戦」と呼ばれる「筑後川の戦い」です。 この戦いは「関ヶ原の戦い」、「川 […]
2011年5月8日 / 最終更新日時 : 2023年6月11日 kento 福岡史伝 大宰府、水城、大野城を築く (663年~665年) 「白村江の戦い」に敗れると、中大兄皇子は新羅・唐の連合軍の九州侵攻に備え、664年九州の行政機関「官家」(那津)の機能を造営中の「観世音寺」の西側に移し「大宰府」とします。そして敵の侵攻を食い止めるため前面(博多湾側)に […]
2011年4月29日 / 最終更新日時 : 2023年6月13日 kento 南北朝・室町 多々良浜の戦い (1336年) 1335年12月後醍醐天皇に反旗をひるがえした足利尊氏は、新田義貞を破り翌1月には一旦、京に入りますが、北畠、新田、楠木軍に破れ、海路九州に落ち延びます。 そして翌月の2月20日頃に赤間関(下関)で少弐頼尚の出迎えを受け […]
2011年4月29日 / 最終更新日時 : 2023年9月2日 kento 江戸 金印発見 (1784年) 福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。 1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます […]
2011年2月12日 / 最終更新日時 : 2024年5月26日 kento 平安 菅原道真大宰府配流 (901年) 大宰府に配流された菅原道真公は、二人の子供と味酒安行など数人の門弟と共に大宰府政庁の南に600mほど離れた謫居(たっきょ)に入ります。 子供はまだ幼い隈麿と紅姫でした。謫居での生活は想像が及ばないほどの過酷なもので、道真 […]