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福岡人物伝
 【小野岑守】

平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。
余談になりますが、幕末維新に活躍した医師・高松凌雲の号は福祉に勤めた岑守の編纂した「凌雲集」が元になっているのかもしれません。


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糸島の平家伝説(平重盛の妻子と都見石)【福岡悲話】
糸島市の二丈満吉には「都見石(みやこみいし)」という史跡があります。 この石は、唐原(とうばる・糸島市満吉の南部)の山中の畑の所々に露出する1~2m程の岩石群の事になります。唐原には、この石に関する伝説が残ります。 時は源平合戦で平家が大宰府に追われた頃の平安時代末期、平清盛の嫡男・平重盛の.....

小野岑守(778年~830年)【福岡人物伝】
平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。 余談になりますが、幕末維新に活躍した医師・高松凌雲の号は福祉に勤.....

中山鹿之介の陣鐘?(国宝・西光寺の梵鐘)【Fアイテム】
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか.....

歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

博多総鎮守 櫛田神社(博多区上川端町)【名所旧跡・博多区】
博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野.....

平清盛「袖の湊」を築く(1158年~1170年代)【福岡史伝・平安】
正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力.....

新羅海賊の入寇(869年)【福岡史伝・平安】
平安初期の800年代、新羅の海賊が度々九州北部に来寇します。これには次のような事情があります。 676年朝鮮統一を果たした新羅はこの頃には衰退期を迎え、地方の王族や豪族が力を持ち始め、各地で反乱が起こります。 このような混乱の中で新羅の海賊の行動が活発化するのです。 博多では869年に2隻の海.....

鎌倉時代(二度の元寇と元弘の乱)【一夜漬け福岡史】
この時代には鎌倉幕府の思惑により武藤氏が大宰少弐に任命され赴任します。武藤氏は官位の少弐を名乗り、 平安時代の原田氏に代わり、筑紫の治安を守ることになります。 ただ鎌倉幕府で平氏の流れを汲む北条氏が実権を持つと、原田氏も怡土郡(いとぐん)と秋月に領地を持つことを許されます。 この時.....

平安時代(菅原道真左遷と藤原純友の乱)【一夜漬け福岡史】
901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。 遺体は大宰府東方の安楽寺に埋葬されますが、後にその地に社殿が建立されます。これが太宰府天満宮の起源になります。 そして菅原道真の左遷から.....

「隋書」の秦王国はどこ?(筑紫の東にあった中華風な国とは?)【わかっていない事】
隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。 百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て.....


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名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
人各能、不能あり、我れ孔明たるあたわず、孔明我れたるあたわず。
伊藤仁斎





名所旧跡・筑豊地区
 【大分廃寺塔跡】-飯塚市大分-



大分廃寺塔礎石

国指定史跡 大分廃寺塔跡
(だいぶはいじとうあと)

      所 在 地
      指定年月日 昭和十六年十二月十三日

 大分廃寺塔跡は、当地域で唯一の古代寺院の塔跡です。  塔跡は、保存状態が大変良く、塔の中心柱を支えた心礎(しんそ)を中心に 十七個の礎石がほぼ創建当時のままの良好な状態で残っています。 心礎は大変丁寧に作られており二条の排水溝が見られます。また、 心礎側面に見られる線刻(せんこく)は伽藍造営の基準線と密接に関連するも のとみられます。  現在までの発掘調査の結果などにより、寺域を区画すると思われ る溝と柵列(さくれつ)を検出し、その寺域は南北約九十四m・束西約百二m、大 分廃寺の建立は八世紀初頭(今から約手三百年前)と推定されま す。また、心礎柱座の直径から計算すると、三十mを超える三重の塔 であったと考えられます。出土する古瓦は、新羅系と呼ばれる華麗 な瓦であり、当時大宰府から豊前への官道の中継地点として、文化 交流が盛んだったことがわかります。現在では塔跡以外は見ること ができませんが、当時は七堂伽藍と言って塔・金堂・講堂などがそろ った立派な寺院であり、その伽藍配位置は金堂を左に、塔を右に配 する、法起寺式(ほっきじしき)と推定されます。

飯塚市教育委員会

大分廃寺塔跡案内板より











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スポットライト人物伝


【少弐景資(しょうにかげすけ)】
(1246年~1285年)


少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。



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