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 【「隋書」の秦王国はどこ?】-筑紫の東にあった中華風な国とは?-

隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。

百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て、そこから東(南東)に進み壱岐国に至り、次に筑紫国に至る。そこから東に向かうと秦王国に至る。ここに住む人々は華夏(中華)の風習を持ち、もしかしたらここが夷洲(いしゅう)なのかもしれないが、断定は出来ない。 また十余国を経て海岸に達す。

筑紫国から「秦王国」への道筋が、もし陸路ならば「海岸に達す。」という言葉より「秦王国」とその他の十余国は九州北部沿岸にあった小豪族の支配する各々の領地の事で、海岸というのは関門海峡に接する門司辺りのことだと思われます。この仮説を元にすると「秦王国」は恐らく那の津から東方のそう遠くない場所にあった地域だと想像できます。平安時代には博多湾内東方部の港町・箱崎に多くの宋商人が住んだ大唐街があり繁栄したといわれていますが、 宋の時代より500年程以前の隋の時代には、日本書紀にも登場する宗像氏が海外と頻繁に貿易を行ったと想像され、もしかしたらこの宗像氏の住んだ地域に近い津屋崎周辺に中国商人もしくは朝鮮商人の居住区があったのかもしれません。
ただ裴世清は返礼の贈物を運んで来ているので、畿内までの交通は最後まで海路だった可能性が高く、こうなると「海岸に達す。」の海岸は大阪辺りの港町の事で、「秦王国」は現在の山口県辺りにあった国になるのかもしれません。

上記の説では「秦王国」を中国または朝鮮商人の居住区としましたが、遣隋使が開始されたのが西暦600年の事で、その約20年前には中国南北朝の戦乱が終わり隋が興った時期であり、朝鮮では40年前に新羅が伽耶を併合しており、その時代背景よりこれらの戦乱で土地を追われた人々が日本に流れ着き住み着いたのがこの「秦王国」ではないかといった事も考えられます。

ところで両国の使者、小野妹子と裴世清の関係がどのようなものであったか「隋書」にも「日本書紀」にも記載されていないため推測するしかないですが、お互いに両国に差し障りのないように心を砕いた様子が二つの書物よりにじみ出ています。妹子も世清も国を代表する外交官という立場なので、互いに愚痴を言い合うような事はなかったでしょうが、「お互い、使者の役目はたいへんなことですなあ」と心は通っていたのかもしれません。 裴世清は1ヶ月ほど都に留められますが、「使者としての仕事はもう済んだので、早く返してもらえまいか」と早々に帰国したい旨を伝えています。そして妹子は裴世清の帰国に随行し再び隋に渡りますが、その後、両国の交流は絶えてしまったと「隋書・倭国」の項は締められています。


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孫子





福岡史伝・戦国
 【北部九州戦国年表】(1530年~1621年)


以下に筑前、筑後、肥前を中心とする戦国時代の年表を記載します。

筑前
筑後
肥前
豊前・豊後
中国地方
その他の出来事
武将の名は時代で変わりますが、理解し易くするためにここでは一般的に認知されている名前で統一しています。

■戦国年表■



1530年 少弐方の龍造寺家兼・鍋島清久らが肥前攻略を目指す大内氏を「田手畷(たでなわて・吉野ヶ里町田手)の戦い」で破り筑前に追う。

1533年 少弐氏と手を結んだ渋川義長(九州探題)が、大内氏に攻められ自害する。ここに九州探題は滅ぶ。

1534年 「三津村(吉野ヶ里町三津)の戦い」で龍造寺家兼が肥前攻略の大内氏を奇襲し筑前に追う。 少弐資元(しょうにすけもと)は龍造寺家兼の仲介で大内義隆と和睦する。

1536年 少弐資元が大内義隆に攻められ父・政資と同じく肥前多久にて自刃する。

1544年 少弐冬尚(資元の子)の家臣・馬場頼周(ばばよりちか)は1534年の大内氏との和睦に関して、龍造寺家兼の逆心を疑い策を巡らし龍造寺家を討つ。

1545年 龍造寺家の主だった人物が馬場頼周に斬られ、家兼は筑後の蒲池鑑盛(かまちあきもり)の元に退去する。

1546年 龍造寺家兼は鍋島氏・千葉氏を後ろ盾に兵を挙げ、馬場頼周を討ち、少弐冬尚と敵対する。そして曾孫の龍造寺隆信を後継とし、この年に没する。

1550年 「二階崩れの変」で大友宗麟が大友家当主となる。

1551年 大内義隆が陶晴賢(すえはるかた)に謀反され自害する。
宗麟の弟・晴英、大内氏を継ぎ大内義長となる。
大内氏の後ろ盾を失った龍造寺隆信は、大友派の家臣に攻められ曾祖父・家兼と同じく蒲池鑑盛の元に退去。

1554年 大友宗麟が肥後の叔父・菊池義武を討ち菊池氏が滅ぶ。

1555年 「厳島の戦い」で毛利元就が陶晴賢を破り周防、長門を掌握する。

1557年 毛利元就に攻められ大内義長が自刃する。
秋月文種と筑紫惟門が毛利元就に呼応したため、大友勢より攻められる。秋月文種は自刃し筑紫惟門(ちくしこれかど)は毛利氏の元に落ちる。

1558年 門司城の戦い。毛利氏と大友氏が攻城戦を繰り広げる。

1559年 少弐冬尚が龍造寺家兼の曾孫・隆信に討たれ、少弐氏が滅びる。
高橋鑑種(たかはしあきたね)、宝満城の城主となる。
毛利氏の元に逃れていた秋月文種の次男・種実が秋月に戻り大友氏に抵抗する。 筑紫惟門が筑前に攻め込み博多が焼亡する。

1560年 「桶狭間の戦い」で織田信長が今川義元を破る。

1564年 7月、大友、毛利が和議を行う。

1566年 「月山富田(がっさんとだ)城の戦い」で毛利氏が尼子氏を敗り、再び九州攻略に乗り出す。

1567年 秋月種実が「休松の戦い」で立花道雪(たちばなどうせつ・戸次鑑連)に奇襲をかけ大混乱に落としいれる。
高橋鑑種が宝満城で主家・大友氏に反旗を翻す。

1568年 立花城主・立花鑑載(たちばなあきとし)が大友氏に反旗を翻すが立花道雪に立花城を落され、自刃する。
「多々良浜の戦い」毛利氏と大友氏が多々良川を挟み対陣する。
織田信長が足利義昭と伴に上洛する。

1569年 大友宗麟の支援を受けて大内一族の大内輝弘が周防より上陸し毛利氏を攻撃する。
尼子氏の家臣・山中鹿之助が出雲国で毛利氏に抵抗する。
後方を攪乱された毛利氏は筑前より撤退する。
後ろ盾をなくした秋月種実、筑紫広門は降伏。高橋鑑種は毛利氏の小倉城へ移される。
高橋紹運(たかはしじょううん)が高橋家を継ぎ、宝満、岩屋の二城を守る。

1570年 6月、毛利元就が没す。
大友軍は大軍で龍造寺を包囲するが「今山の戦い」で、鍋島信生の夜襲を受け敗走する。

1575年 「長篠の戦い」で織田信長が武田勝頼を破る。

1578年 11月、「耳川の戦い」で大友が島津に大敗を喫す。
秋月氏と筑紫氏が龍造寺氏と手を組み大友氏に三度目の反乱を起こす。
蒲池氏など筑後の武将も大友氏と一線を画し龍造寺に寄る。

1579年 10月、龍造寺と筑紫広門が大友の鷲岳城に兵を向ける。

1580年 蒲池鎮並(かまちしげなみ)が龍造寺隆信より離反する。
龍造寺氏が柳川城攻略を行うが落とせず撤退する。

1581年 5月27日、蒲池鎮並が龍造寺隆信に謀殺される。
5月28日、龍造寺勢に攻められ蒲池氏の柳川城落城。続き6月1日、塩塚城落城し五百余名が討たれる。翌々日には佐留垣落城が落城し百余名が討たれ蒲池氏が滅ぶ。

1582年 6月2日、本能寺の変。

1583年 高良山座主麟圭(りんけい)は3年にわたって久留米城に籠り、大友氏と対立する。
「賤ヶ岳の戦い」で豊臣秀吉が柴田勝家を破る。

1584年 3月、龍造寺隆信、「沖田畷の戦い」で島津に敗れ討死する。

1585年 3月、秋月種実が立花城を攻めるが、立花統虎の夜襲に遭い撤退する。
5月、豊臣秀吉の四国攻め。
9月、立花道雪が北野の陣中で病没する。
筑紫広門が、高橋紹運の不在を突き宝満城を攻略する。

1586年 4月、大友宗麟が豊臣秀吉に謁見し救援を求める。
筑紫広門が高橋統増(紹運の次男)に娘を入れ同盟する。宝満城は高橋氏と筑紫氏で共同で守る。
五ヶ山城を島津勢に攻められ筑紫広門が降伏。
7月、「岩屋城の戦い」で、島津軍に攻められた高橋紹運が自刃する。
8月、豊臣軍が九州に上陸する。
8月、立花宗茂が岩屋城、宝満城を奪い返す。
10月、徳川家康が豊臣秀吉に臣従する。

1587年 5月、島津義久が秀吉に降伏する。
6月、大友宗麟が病没。
太閤博多町割りが行われる。
豊臣秀吉の九州国割により、筑前には小早川隆景、豊前の南部には黒田如水、久留米には毛利秀包(ひでかね)、柳川には立花宗茂が入る。

1598年 豊臣秀吉が没する。

1600年 関ヶ原の戦いで東軍で勝利に貢献した黒田長政が筑前に入る。西軍に着いた立花宗茂は改易される。

1615年 「大坂夏の陣」で豊臣氏が滅ぶ。

1621年 立花宗茂が再び柳川城主となる。










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スポットライト人物伝


【藤原隆家(ふじわらたかいえ)】
(979年~1044年)


平安時代の名門出身の隆家は大宰府へ大宰権帥(だざいごんのそつ、大宰府長官)として赴任中、博多湾に来寇した「刀伊の海賊」と戦い撃退します。 しかし残念な事に10代の頃に花山法皇の袖を矢で射抜いてしまうといった事件を起こしています。 この人の性格と爽快な生き方から後世の人からもっと注目されてよい人物なのですが、 もうひとつ注目されないのはその事件がネックになっているのかもしれません。



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