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一夜漬け福岡史 【鎌倉時代】-二度の元寇と元弘の乱-
そして1274年、対馬、壱岐、松浦を襲った3万の元軍が博多湾に押し寄せます。 日本側では少弐氏を中心としてこれを迎え撃ちました。 日本の武将は敵の集団に駆け込み「や~や~我こそは○○なり~」と名乗り敵将を求めますが、 元軍の兵士たちからはこの行動にどっと笑いが起こったといわれます。 そして、あっという間に取り囲み日本の武将を倒してしまうといった状況だったようです。 また日本軍の兵士たちも、元軍の炸裂弾や毒矢によって徹底的に叩かれ、大陸各地で戦ってきた元軍の戦法に翻弄されます。 幸いな事にこの戦いを最後に元軍は撤退します。これが「文永の役」です。 しかしこの6年後に元軍は再び侵攻してきました。これが「弘安の役」で兵は「文永の役」の5倍に近い14万人でした。 前回の戦いで元軍の戦法を学んだ武士団は、元軍を水際で食い止める必要性を感じ、 博多湾の海岸線に沿いに地道な努力で石垣を築き元軍を迎え撃ちました。この戦術は功を奏し元軍は博多湾からの上陸を諦め、 松浦(長崎県)に向かいそこから上陸しようとしますが、ここでも日本軍の抵抗に合います。 そしてそこを台風が通過し、元の軍船の大半が転覆、沈没することとなります。 こうして鎌倉幕府は元軍を撃退することができたのですが、 その後、元軍と戦った武士団に分け与える恩賞の手配に苦慮します。 そして「弘安の役」より4年後に鎌倉で「霜月騒動」が起こりますが、この事件の一因が恩賞問題にあったのは間違いないと思われます。 「霜月騒動」は筑前にも波及し、少弐氏の嫡男・経資(つねすけ)が元寇では共に奮戦した弟・少弐景資(かげすけ)の岩門城に兵を送り攻め滅ぼします。 これが「岩門合戦(いわとがっせん)」で、これら一連の抗争で敗れた御家人たちの領地が恩賞に分配されたといわれています。 そして元寇の約50年後に鎌倉幕府は終焉を迎えることになります。 1331年に後醍醐天皇の呼び掛けで「元弘の乱」が起こり、反幕府勢力が各地に蜂起します。 博多でも1333年に菊池武時が起ち鎮西探題を襲いますが逆に少弐、大友軍の味方する北条英時の鎮西軍に討たれます。 この時、少弐、大友両氏は菊池武時と鎮西探題を討つ密約を交わしていましたが、直前で時期尚早と判断し鎮西探題側についています。 最終的にその2ヵ月後、北条英時は少弐、大友、島津の軍に討たれ鎮西探題は滅びますが、 この経緯が少弐氏と菊池氏の間に遺恨を残し、以後、両氏は壮絶な戦いを繰り広げてゆく事になります。 (2012.11.26) 関連記事:鎌倉 |
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福岡史伝・幕末・維新 【福岡の変】(1877年) 熊本、秋月、萩の乱が醒め遣らぬ1877年2月、薩摩の私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起すると、 福岡でも薩軍に呼応するため元福岡藩士の武部小四郎や越智彦四郎が準備を始めます。 そして薩軍の決起より約2ヵ月後の3月27日、200名余りで兵を挙げますがこの頃、 薩軍は田原坂周辺で政府軍との戦闘中で一進一退を繰り返す状況でした。 田原坂より100キロほど北方の福岡は政府軍の勢力圏で、頻繁に本州から下って来た政府軍の援兵が熊本方面へ南下して行きます。 福岡城の襲撃に失敗した越智彦四郎率いる約150の兵はこの様な状況の福岡に留まる訳にもいかず、薩軍に合流するため南へ向かいます。 途中で轟警察署(鳥栖)を襲いますがここでも失敗、熊本への行軍を断念し目的地を秋月へ変更します。 その途の小郡北部で官軍の挟撃に合い30名以上が斃れます(彼岸土居古戦場)。 残った兵は秋月方面に逃れますが、政府軍に抵抗する力も尽き捕縛されます。 5月2日、越智彦四郎、加藤堅武、久光忍太郎、村上彦十が斬首、博多に潜伏していた武部小四郎もこの日に捕縛され翌3日に斬首されました。 これは、西南戦争が終結する4ヶ月前のことでした。 これにより武力による新政府への抵抗は終わりを告げますが、「秋月の乱」や「福岡の変」に参加し生き残った若者たちは自由民権運動に走り、 また「玄洋社」を立ち上げ日本の政治に深く関わって行くことになります。 この変で斬首された加藤堅武、武部小四郎は「乙丑の獄」で切腹した筑前勤皇党の加藤司書、建部武彦の子息であり、 幕末から明治維新へかけて福岡藩の人々の苦悩の深さを感じざるを得ません。 (2011.7.16) |
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