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 【中山鹿之介の陣鐘?】(明治時代)-国宝・西光寺の梵鐘-

国宝「西光寺梵鐘」
明治30年(1897年)頃の事、早良内野の西光寺の檀家衆はお伊勢参りに出かけます。その帰途、大阪に泊まった一行が街中を散策中、一人の檀家が古物商の軒先に雨ざらしになった梵鐘に目を止めます。汚れた上に乳部(上部にある複数の突起)が3つも外れている鐘。「松江の金物店から引き取ったんやけど、高値でなかなか売れませんのや。潰して金でもとろうか思って乳部を鑑定に出したんですけど含有量が少のうて・・・。由緒ある鐘やけど勉強しますに、どないですか?」店の主人の説明はこんな感じだったと想像するのですが・・・。 梵鐘に刻まれた銘文に詳しい人物がいたのか、一行はこの鐘を買い取ることに一決し、後日に三百六十五円を支払い梵鐘を地元の内野・西光寺に納めます。当時の物価は物によっても違うのでしょうが、150~200万円といったところでしょうか? のちに平安時代の893年に鋳造されたもので戦国時代の尼子氏やその家臣・中山鹿之介とも縁のある梵鐘であることが判明します。この事から「中山鹿之介の陣鐘」との逸話も生まれた様ですが、陣鐘にしてはちょっと大き過ぎる気がしないでもありません。

日本で鋳造年が判明しているものとしては5番目に古いこの梵鐘は1954年に国宝に指定されています。



中山鹿之介は毛利氏に滅ぼされた尼子氏の家臣で、尼子氏の再興に命を掛けますが支援する織田軍が兵を引いたため孤立し敗れ、毛利の軍に捕らえられ斬られます。鹿之介の残したといわれる「願わくば、我に七難八苦を与えたまえ」の言葉は余りにも有名です。 今現在、大きな壁に突き当たって抜け出せそうにない人も、この言葉を噛み締めれば多少なりとも勇気が湧いてくるのかもしれません。


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福岡史伝・平安
 【平清盛「袖の湊」を築く】(1158年~1170年代)

正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力を握った清盛は、 巨額な利益を生み出す「日宋貿易」に目をつけ独占化を狙います。
おそらくこの1158年から弟の平頼盛が筑紫に派遣された1166年の辺りに「袖の湊」は築造されたもと想像されます。
ちなみに「博多どんたく」の前身「博多松囃子(はかたまつばやし)」は清盛の長男、平重盛の恩恵に感謝のため始められたものと「筑前国続風土記」に書かれている そうです。「袖の湊」との関わりは不明ですが、これが事実とすれば平家の人々が博多の町に深く関わっていたという事になります。

現在その「袖の湊」がどの辺りにあったか不明ですが、住吉神社の「博多古図」や「筑前国続風土記 巻之四 博多 袖湊」の内容、 菅原道真の筑紫上陸の地が網場町といった言い伝えより、 おそらく那珂川と御笠川の間にある網場町、古門戸町、奈良屋町、中呉服町(博多区)辺りにあったものと想像されます。

(2011.6.26)


「筑前国続風土記」に記載される「袖の湊」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」(pdf)のページへリンク









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【懐良親王(かねながしんのう)】
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後醍醐天皇の皇子で、薩摩から九州へ上陸し南朝側の菊池武光に迎えられ肥後北部の菊池に征西府を開きます。 その後、菊池氏の武力を背景に1361年に大宰府を攻略し九州をほぼ制圧します。 この頃、創生期の明では倭寇に手を焼いた洪武帝が抗議の使者を送りますが、これに日本国王として応対したのが懐良親王です。 親王はこの使者を斬捨てる素振りをしたり、アイロニーに富んだ長文の返書をしたためたりと、一筋縄では行か.....[全文を表示]



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