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福岡史伝・平安
 【平清盛「袖の湊」を築く】(1158年~1170年代)

正確な年代は不明ですが平安時代の末期、博多に「袖の湊」が築かれます。この港は平清盛が築いたのではないかといわれていますが、 その説が正しいとすれば、1158年、清盛が大宰大弐に任命された以降と思われます。 この任命に前後して起こった「保元の乱」と「平治の乱」で対抗する有力者を倒し権力を握った清盛は、 巨額な利益を生み出す「日宋貿易」に目をつけ独占化を狙います。
おそらくこの1158年から弟の平頼盛が筑紫に派遣された1166年の辺りに「袖の湊」は築造されたもと想像されます。
ちなみに「博多どんたく」の前身「博多松囃子(はかたまつばやし)」は清盛の長男、平重盛の恩恵に感謝のため始められたものと「筑前国続風土記」に書かれている そうです。「袖の湊」との関わりは不明ですが、これが事実とすれば平家の人々が博多の町に深く関わっていたという事になります。

現在その「袖の湊」がどの辺りにあったか不明ですが、住吉神社の「博多古図」や「筑前国続風土記 巻之四 博多 袖湊」の内容、 菅原道真の筑紫上陸の地が網場町といった言い伝えより、 おそらく那珂川と御笠川の間にある網場町、古門戸町、奈良屋町、中呉服町(博多区)辺りにあったものと想像されます。
(2011.6.26)


「筑前国続風土記」に記載される「袖の湊」について詳しく知りたい方はこちらへどうぞ!
中村学園電子図書館「筑前国続風土記」(pdf)のページへリンク


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 【「隋書」の秦王国はどこ?】-筑紫の東にあった中華風な国とは?-

隋の煬帝(ようだい)は日本からの使者・小野妹子が帰国する際に裴世清(はいせいせい)を使者として付けますが、その時の道筋が唐時代初期に書かれた「隋書」に記載されています。

百済を渡り(朝鮮半島の西沿岸を航行し)、竹島(珍島?)に至り、耽羅(たんら・済州島)の北を通る。そして大海の中にある対馬国を経て、そこから東(南東)に進み壱岐国に至り、次に筑紫国に至る。そこから東に向かうと秦王国に至る。ここに住む人々は華夏(中華)の風習を持ち、もしかしたらここが夷洲(いしゅう)なのかもしれないが、断定は出来ない。 また十余国を経て海岸に達す。

筑紫国から「秦王国」への道筋が、もし陸路ならば「海岸に達す。」という言葉より「秦王国」とその他の十余国は九州北部沿岸にあった小豪族の支配する各々の領地の事で、海岸というのは関門海峡に接する門司辺りのことだと思われます。この仮説を元にすると「秦王国」は恐らく那の津から東方のそう遠くない場所にあった地域だと想像できます。平安時代には博多湾内東方部の港町・箱崎に多くの宋商人が住んだ大唐街があり繁栄したといわれていますが、 宋の時代より500年程以前の隋の時代には、日本書紀にも登場する宗像氏が海外と頻繁に貿易を行ったと想像され、もしかしたらこの宗像氏の住んだ地域に近い津屋崎周辺に中国商人もしくは朝鮮商人の居住区があったのかもしれません。
ただ裴世清は返礼の贈物を運んで来ているので、畿内までの交通は最後まで海路だった可能性が高く、こうなると「海岸に達す。」の海岸は大阪辺りの港町の事で、「秦王国」は現在の山口県辺りにあった国になるのかもしれません。

上記の説では「秦王国」を中国または朝鮮商人の居住区としましたが、遣隋使が開始されたのが西暦600年の事で、その約20年前には中国南北朝の戦乱が終わり隋が興った時期であり、朝鮮では40年前に新羅が伽耶を併合しており、その時代背景よりこれらの戦乱で土地を追われた人々が日本に流れ着き住み着いたのがこの「秦王国」ではないかといった事も考えられます。

ところで両国の使者、小野妹子と裴世清の関係がどのようなものであったか「隋書」にも「日本書紀」にも記載されていないため推測するしかないですが、お互いに両国に差し障りのないように心を砕いた様子が二つの書物よりにじみ出ています。妹子も世清も国を代表する外交官という立場なので、互いに愚痴を言い合うような事はなかったでしょうが、「お互い、使者の役目はたいへんなことですなあ」と心は通っていたのかもしれません。 裴世清は1ヶ月ほど都に留められますが、「使者としての仕事はもう済んだので、早く返してもらえまいか」と早々に帰国したい旨を伝えています。そして妹子は裴世清の帰国に随行し再び隋に渡りますが、その後、両国の交流は絶えてしまったと「隋書・倭国」の項は締められています。









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スポットライト人物伝


【平野國臣(ひらのくにおみ)】
(1828年~1864年)


朝廷や長州藩、薩摩藩に広い人脈を持った名の知れた倒幕勤皇の志士で、のちに「寺田屋事件」「生野の変」に関わります。 「禁門の変」の時に捕らわれていた京都六角獄で斬首され36年間の人生を終えてます。



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