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名所旧跡・博多区
 【博多総鎮守 櫛田神社】-博多区上川端町-



博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野好古といわれ、その後、1587年には戦国時代の騒乱で荒廃した博多を再建する「太閤博多町割り」で本殿が建立されることになります。
また全国的に知名度の高い神事「博多祇園山笠」は鎌倉時代に聖一国師が、当時流行した疫病を鎮めるため町人の担ぐ施餓鬼棚に乗って博多の町に祈祷水を撒いて廻ったのが始まりといわれています。

境内には「太閤博多町割り」で建てられた「博多べい」、「川上音二郎寄進の碑」、樹齢千年といわれる「大銀杏」、「蒙古軍の碇石」、「飾り山」などの観光の見どころが多数あります。



櫛田神社 楼門

【博多総鎮守 櫛田神社】

   御祭神 左殿 天照皇大神 (大神宮)
       中殿 大幡主大神 (櫛田宮)
       右殿 素戔嗚尊  (祇園宮)

   例 祭 五月三日四日   博多どんたく
       七月一日~十五日 博多祇園山笠
       十月二十三日   博多おくんち

當社は鎮西の雄都博多の守護神とし天平宝字元年託宣により 大幡主大神を鎮祭した 天照皇大神の御鎮座は之より更に古い 素戔嗚尊の奉祀は天敬四年に追討使小野好古が反亂の鎮定に 下向し京都祇園宮を勧請して祈願した由縁による
爾来 源平合戦蒙古軍の襲来等九州の地に異變勃発の 重大事ことに史上有名の人士を始め一般庶民の篤い尊崇を集め 就中菊池武時豊臣秀吉等の祈請の事蹟は廣く世に知られて いる 近時福岡市の発展と共に殖産興業陸海交通の守神 として信仰愈々篤くまた開運厄除不老長寿の神として 今日の社頭の隆盛を見るに至っている
當社の祭禮中祇園例大祭は国の重要無形民俗文化財に 指定された博多祇園山笠の奉納行事によって全国的に名聲 を博し七百五十有余年傅来の夏祭の豪華版である
尚社頭の銀杏の木は天然記念物に指定され古くから博多の 祝い歌となって親しまれ神木として名高い

  県指定天然記念物
       櫛田の銀杏
  県指定無形文化財 國重要無形民俗文化財
       博多祇園山笠
       博多松ばやし
  その他 博多関係の文化財を始め幾多の資料を蔵している

  特殊神事 博 多 節 分 祭(二月節分の日)
       ぎ な ん 祭(三月十二日)
       夫婦恵比須千座祭(十二月二日三日)
                                 社務所

櫛田神社の石版より








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福岡史伝・幕末・維新
 【二卿事件-久留米藩難-】(1871年)

明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」という出来事が、これより以前の明治4年に発生しています。
これは、幕府を倒したものの、攘夷を断行しない新政府を再度倒して、攘夷を敢行する事を目的とした計画でした。この計画は未遂に終わったため、歴史的に大きく取り扱われる事が少なく、あまり一般的には知られていませんが、秋田、東京、京都、久留米などで多くの捕縛者を出しました。主謀者は愛宕通旭(おたぎみちてる)、外山光輔(とやまみつすけ)の二人の公卿となっていますが、裏で攘夷派の志士が連絡を取り合って幾つかの不平勢力を繋ぎ、連携を広げていったようです。ただ活動はそれぞれの思惑で動き、また広範囲で活動したため、新政府の察知するところとなり決起の前に主要メンバーが捕縛される事になります。
勝海舟もこの計画を肥後の古荘嘉門から聞かされていた様で、後に「東北(連合の事)は、少なくとも二年位は持つと思っていたよ。」と回顧しています。

久留米は、尊王の士・高山彦九郎の終焉の地で、また早い時期から志士の真木和泉が出て尊王の地として名高いところでしたが、幕末の頃は佐幕派の不破美作(ふわみまさか)が参政となり、その下で今井栄が藩の開明化を進めます。
しかし、幕府が大政奉還を行うと、翌1968年(慶応4年)1月、尊攘派の小河真文(おごうまふみ)らによって不破が暗殺され、翌年には今井が切腹、佐幕派が粛清されます。そして、小河は奇兵隊脱隊騒動で長州より逃れてきた大楽源太郎(だいらくげんたろう)を匿いますが、この大楽を通して「二卿事件」に関わった様です。
1871年(明治4年)3月、事が露見すると小河は捕縛され、その三日後、大楽が久留米藩士によって斬られます。そしてその年の12月には二卿が切腹、その他の主謀者が斬首となっています。幕末に人斬りとして知られた河上彦斎もこの時に斬られており、二卿事件に関わった疑いがあったようです。
この事件で、攘夷思想は影を潜め、引き続き西洋文化が取り入れられ近代化が押し進められていくことになります。









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スポットライト人物伝


【草野経永(くさのつねなが)】
(?~?)


筑後の御家人で父・草野永綱(くさのながつな)と共に「弘安の役」に参陣します。 博多湾に悠々と停泊する元の船団を目の当たりにした経永は「何とか一泡吹かしてやろう」 と2艘の小船に郎党を分乗させると夜陰に紛れて元の軍船に近づきます。そして敵船に飛び移ると火をかけ、 無警戒だった元軍の兵士たちを次々に討ち取り、凱旋します。 この奇襲戦の成功を知った他の御家人たちは「先を越された!」と悔しがり、その後に多.....[全文を表示]



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