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名所旧跡・博多区 【博多総鎮守 櫛田神社】-博多区上川端町- 博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野好古といわれ、その後、1587年には戦国時代の騒乱で荒廃した博多を再建する「太閤博多町割り」で本殿が建立されることになります。 また全国的に知名度の高い神事「博多祇園山笠」は鎌倉時代に聖一国師が、当時流行した疫病を鎮めるため町人の担ぐ施餓鬼棚に乗って博多の町に祈祷水を撒いて廻ったのが始まりといわれています。 境内には「太閤博多町割り」で建てられた「博多べい」、「川上音二郎寄進の碑」、樹齢千年といわれる「大銀杏」、「蒙古軍の碇石」、「飾り山」などの観光の見どころが多数あります。
櫛田神社の石版より |
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福岡史伝・幕末・維新 【二卿事件-久留米藩難-】(1871年) 明治初期の反政府騒乱は、1874年(明治7年)の「佐賀の乱」、明治9年の「神風連の乱」、「秋月の乱」、「萩の乱」、明治10年の「西南戦争」と続きますが、「二卿事件」という出来事が、これより以前の明治4年に発生しています。 これは、幕府を倒したものの、攘夷を断行しない新政府を再度倒して、攘夷を敢行する事を目的とした計画でした。この計画は未遂に終わったため、歴史的に大きく取り扱われる事が少なく、あまり一般的には知られていませんが、秋田、東京、京都、久留米などで多くの捕縛者を出しました。主謀者は愛宕通旭(おたぎみちてる)、外山光輔(とやまみつすけ)の二人の公卿となっていますが、裏で攘夷派の志士が連絡を取り合って幾つかの不平勢力を繋ぎ、連携を広げていったようです。ただ活動はそれぞれの思惑で動き、また広範囲で活動したため、新政府の察知するところとなり決起の前に主要メンバーが捕縛される事になります。 勝海舟もこの計画を肥後の古荘嘉門から聞かされていた様で、後に「東北(連合の事)は、少なくとも二年位は持つと思っていたよ。」と回顧しています。 久留米は、尊王の士・高山彦九郎の終焉の地で、また早い時期から志士の真木和泉が出て尊王の地として名高いところでしたが、幕末の頃は佐幕派の不破美作(ふわみまさか)が参政となり、その下で今井栄が藩の開明化を進めます。 しかし、幕府が大政奉還を行うと、翌1968年(慶応4年)1月、尊攘派の小河真文(おごうまふみ)らによって不破が暗殺され、翌年には今井が切腹、佐幕派が粛清されます。そして、小河は奇兵隊脱隊騒動で長州より逃れてきた大楽源太郎(だいらくげんたろう)を匿いますが、この大楽を通して「二卿事件」に関わった様です。 1871年(明治4年)3月、事が露見すると小河は捕縛され、その三日後、大楽が久留米藩士によって斬られます。そしてその年の12月には二卿が切腹、その他の主謀者が斬首となっています。幕末に人斬りとして知られた河上彦斎もこの時に斬られており、二卿事件に関わった疑いがあったようです。 この事件で、攘夷思想は影を潜め、引き続き西洋文化が取り入れられ近代化が押し進められていくことになります。 |
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