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福岡史伝・平安
 【藤原純友の乱】(941年)

四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍が到着し反乱軍を撃破します。 純友は伊予国に逃げますが、6月には捕縛され獄中で没しました。
(2011.6.18)


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榎社(太宰府市朱雀)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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学校院跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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日吉神社(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
案内板に記載されている「江戸時代の地誌」とは貝原益軒の「筑前国続風土記」のことで、この神社は「山王社」の名で紹介されています。 その中には「豊臣秀吉は島津を降伏させ筑前に戻ると、安楽寺(太宰府天満宮?)に詣でるが、 その時この神社に陣をとった。」といったことが書かれています。 とこ.....

戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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岩屋城跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の.....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。 .....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

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意外な話…それってホント?意外すぎる話。

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名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

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余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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福岡史伝・戦国
 【耳川の戦い-筑前・筑後-】(1578年)

高城川古戦場(後方の小高い山が高城)
同族間で争いを繰り広げていた島津氏は貴久が頭主になると、周辺豪族を従え勢力を拡大します。日向の伊東氏も「木崎原の戦い(1572年)」で貴久の子・島津義久に破れ、5年後には日向を奪われ豊後大友氏の元へ逃れ救いを求めます。これに大友宗麟は島津氏との対決を決意し日向へ大軍を向けます。
1578年11月、戦いは現在の宮崎県木城町高城辺りで行われました。合戦前には大友の武将たちに意見の不一致があり、中途半端な状況で一部の武将が戦いを始め、これに他の軍も引きずられるように戦線に加わります。大友軍は緒戦で敵を蹴散らした勢いで島津軍本隊と戦うため高城川(小丸川)を渡りますが、そこへ四方から一斉に島津軍が突撃し、大友の軍勢は大混乱に陥り形勢は逆転、北へ向けて敗走します。島津軍はこれを追い20km以上離れた耳川に追い詰めます。混乱を極めた敗走の軍は川を渡る手立てもなく次々に討たれ、川を渡ろうとした者も底の深い流れに呑まれて行きます。こうして大友宗麟は頼りとした百戦錬磨の将兵たちの多くを耳川に失い、以後、急速に勢力を縮小して行く事になるのです。

大友方のこの大敗で、筑前、筑後も風雲急を告げます。 筑後の諸豪族は勢力を拡大する容赦のない龍造寺隆信になびき、筑前南東部では秋月種実が大友の筑前諸城と本拠地・豊後を分断、筑前西部では龍造寺とつながる原田信種が勢力を拡大し、肥前南東部からは筑紫広門が龍造寺と共に筑前南部の大友方の城を狙います。大友の重鎮・立花道雪は養子の立花統虎(宗茂・高橋紹運の長男)に立花城を守らせ、自らは軍勢を率い筑後勢力と対峙し、岩屋城の高橋紹運は東に秋月種実と西に筑紫広門の両面の敵を抱える情勢となります。
大友方の多くの将兵が斃れた耳川
1584年には龍造寺隆信が「沖田畷の戦い」で島津軍に敗れ討死するも、翌年には頼りの立花道雪も病没し、大友氏は窮地に陥ります。島津勢は肥前、筑後の兵をも取り込み益々勢力を増し攻勢に出ます。これに抗す手立てを失くした豊後の大友宗麟は遂に大坂に出向き豊臣秀吉に救援を求める事になるのです。


写真の「高城川古戦場」は宮崎県児湯郡木城町高城。「耳川」は宮崎県日向市美々津町で撮影したものになります。









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スポットライト人物伝


【栗山利安(くりやまとしやす)】
(1551年~1631年)


黒田官兵衛が若い時より付き従った人物で黒田家家臣団の中心武将です。 有岡城に官兵衛が幽閉されると出入りの商人に紛れ潜入し囚われの主君に面会を果たし、 有岡城落城の際は一番に土牢に駆けつけ官兵衛を救い出します。 また関ヶ原の戦いが起こると人質にされそうになった官兵衛、長政の両夫人を母里太兵衛と共に大坂の黒田邸より救い出し中津城まで送り届けています。



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