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検索の結果 11件の記事が見つかりました


歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

秋月城跡(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
秋月氏について 秋月氏の祖は「藤原純友の乱」で小野好古と共に乱を平定した大蔵春実といわれ、乱平定後は大宰府より南に6㎞ほど離れた原田(はるだ)に居を構え原田氏を名乗ります。 その後、原田氏は「源平の戦い」で平氏につき敗北、源氏より所領を没収されます。 しかし将軍が頼.....

都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の74.....

博多総鎮守 櫛田神社(博多区上川端町)【名所旧跡・博多区】
博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野.....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

平安時代(菅原道真左遷と藤原純友の乱)【一夜漬け福岡史】
901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。 遺体は大宰府東方の安楽寺に埋葬されますが、後にその地に社殿が建立されます。これが太宰府天満宮の起源になります。 そして菅原道真の左遷から.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

都井岬の馬(2014年8月28日)【余談】
宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。 秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代.....

藤原純友(893年~941年)【福岡人物伝】
瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った藤原純友の軍は本拠地の伊予を朝廷軍に制圧されると、 筑紫に逃れ大宰府を襲い観世音寺で略奪を行います。 しかし博多湾で朝廷軍に破れ伊予に逃げ戻りますが、そこで捕らえられ獄死する事になります。 .....

大蔵春実(?~?)【福岡人物伝】
前漢高祖・劉邦、後漢光武帝・劉秀の血を受け継ぐといわれる人物で朝廷より「藤原純友の乱」の平定に派遣されます。 乱の平定後は大宰府南方の原田に屋敷を置き大宰大監(だざいだいかん)に就任します。その後、京都に戻りますが その地に残った子孫は地名の原田氏を名乗り筑紫の豪族となります。また江戸時代の米沢藩の.....


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目   次

福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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【記想録】行蔵は我に存す

名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
乾児(こぶん)を作らば遂に乾児のために己れの誠を誤り、また己れが取るべき道を誤るに至らん。
海舟座談





わかっていない事
 【「漢委奴国王」の読み方は?】-「倭」は「委」から生まれた新漢字?-

亀井南冥「金印鑑定書」
金印「漢委奴国王」の読み方は「漢の倭の奴の国王」という読み方が通説となっているようで、高校の授業でもそう教えられた記憶があります。また福岡市博物館のサイトにも「王朝名(漢)の次に民族名(倭)、そして部族名(奴)がくるので、漢ノ委ノ奴ノ国王という読み方が代表的な解釈です」といった事が記載されています。
この説でひとつ引っ掛かるのは「倭」が「委」になっていることです。一般的に、これは「イ(にんべん)」が略されたものと考えられているのですが、実際「倭」という漢字が誕生したのがどうも金印が製造された後の事ではないかといった事が考えられるのです。
具体的に説明すると、中国統一後の時代は

秦(BC221-BC206)

漢(BC206-8)

新(8-23)

後漢(25-220)

三国時代(220-280)

晋(265-420)

五胡十六国(304-439)

南北朝(宋・北魏)(439-589)

と変遷するのですが、この中の後漢の初代皇帝の時代に金印は送られています。そして「倭」という文字が載る書物、三国志の「倭人の条」は晋の頃に書かれ、金印の事が記載される「後漢書」は南北朝時代の南朝・宋の時代に書かれています。この二つの書以外にも「論衡(ろんこう)」というものがある様ですが、こちらも金印が奴国王に送られた同時期か、それ以降に書かれたものの様です。また「漢書」にも「倭」は記載されているようですがこちらも後漢に書かれた書物になります。このように金印が製造される以前(西暦57年以前)に「倭」という文字は見当たらない様なのです。(調査不足かもしれません。もしあったら申訳ありません。)
またネットで調べたみたのですが、「倭」という漢字は「日本」ということ以外の意味を持っておらず、東方の島国を表すために創作された文字に違いない様です。これ等の事より、「倭」は後漢以降に派生した文字の様な気がしてならないのです。もしかしたら公文書を管理する後漢代の学者が「委」に単に「イ(にんべん)」を付け足して作った新漢字なのかもしれません。
この様な考えからすれば、「倭」を略して「委」と刻んだのではなく、金印に刻まれた「委」が先で、何らかの誤解が起こり「イ(にんべん)」を付け足したという順番が考えられるのです。

以下に根拠のない想像のみの説を書いてみます。
金印「漢委奴国王」は「漢の委任した奴国王」という意味で彫られたものでしたが、その判を見た後漢の歴史家が「委」を民族名と勘違いし、文章に頻繁に使用される「委」を民族の固有名詞として扱うのは差し障りがあると考え「イ(にんべん)」を付加し当て字を作ります。後代の史家はこれに倣い、日本の事を「倭」と記述したのでは?
こんな事を推測していると「カン・イ・ナコクオウ(漢の委任した奴国王)」という読み方も一説として有りなのではと感じるのですが・・・。

元の時代に書かれた宋史にも「自後漢始朝貢(後漢に始めて朝貢してから)・・・」と書かれ、少なくとも元の時代の史家は中国と倭の関係は後漢の時代からと認識していたようです。後漢以前に公式な接点がなかったと言う事は「倭」という文字は後漢以降に派生した可能性が少なくない事を物語っているのかもしれません。

たぶんこの説は、素人歴史ファンから過去に挙がっているのかもしれません。正誤は別にして普通に読めばそう読めてしまうのですから・・・

写真は福岡市博物館に展示される亀井南冥の「金印鑑定書(複製)」です。ここには『唐土し書。本朝を倭奴国と省之は委字ハ倭字を略したる者と相見えん』と書かれ、内容は『中国の史書には日本を倭奴国とする。この金印の「委」は「倭」を略したものと考えられる。』といった意味だと思われます。









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スポットライト人物伝


【味酒安行(うまさかやすゆき)】
(?~?)


味酒安行は菅原道真の配流に従った人物です。道真の死去後は遺骸を牛車に乗せて安楽寺へ運び埋葬し、翌年には祠廟を創建します。 この味酒安行が立てた祠廟が後の太宰府天満宮で、現在では沢山の参拝客、観光客が訪れる福岡一の観光地となっています。



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