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福岡史伝・奈良
 【戒壇院建立】(761年)

戒壇院本堂
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。
(2011.5.18)


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都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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学校院跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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日吉神社(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

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意外な話…それってホント?意外すぎる話。

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名所旧跡・福岡地区南部
 【裂田の溝】-那珂川町山田~安徳-



裂田の溝

裂田の溝 さくたのうなで
 (築造年代 不明)


この神社の後に流れているのが日本書紀に書かれている裂田の溝(さくたのうなで)です。
山田のーノ井堰から取水し、山田をはじめ、流域の六集落の田地をうるおしてきた重要な人工の用水路で、日本書紀には「・・・溝を掘っていると、大岩に突き当たり、それ以上進めなくなった。そこで、神に祈ったところ、雷が落ち、その大岩が裂けて水を通すことができ・・・」と書かれ、それがこの溝の名前の由来にもなっています。我が国で一番古い歴史書に書かれ、現在まで使われ続けている溝は全国でも珍しく、貴重な遺跡といえます。
これより下流には、当時とあまり変わってない所がいくつかあり、はるか古代の大がかりな工事を想像できるのではないでしょうか。


那珂川町教育委員会

現地の案内板より
右手が裂田神社になります。




裂田溝 ~裂田溝の発掘調査~

裂田溝の名前の由来は、『日本書紀』の記載によるものですが、記載されている「大岩が立ち塞がった」のがこの場所だといわれています。教育委員会が実施した調査では、このことに関する貴重な成果が得られました。地質的な調査では、ここより上・下流は軟らかい地盤であるのに対し、この場所だけ硬い岩盤が東側の丘陵から細長く張り出していることがわかりました。(右図参照)また発掘調査でも、裂田神社の裏手から溝の底を経て、対岸まで広がる花崗岩の硬い岩盤を確認しています。つまり、ここまで掘り進んできた水路を北側へ通すためには、どうしても水路の開削を遮っている硬い岩盤を突破しなければならず、その工事がいかに大変であったかが、日本書紀の記載に繋がっだのではないかと考えられます。
裂田溝は、水田への水の供給をはじめ、私たちの生活と大変密接な関係にあったため、これまで必要に応じて何度も改修され溝幅も変化しています。しかし、この場所は伝説とも符合するため、水路の初期の形状を留める可能性が高い重要な場所といえます。

那珂川町教育委員会

裂田の溝の案内板より 「裂田溝 ~裂田溝の発掘調査~」の内容に「(右図参照)」との部分がありますが「右図」は掲載しておりません。 参考に GoogleMap を貼りつけています。
写真は裂田神社裏の溝になり、南に500mほどのところに裂田溝公園があります。














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スポットライト人物伝


【小野岑守(おのみねもり)】
(778年~830年)


平安初期の政治家で伝説の詩人・小野篁(たかむら)の父親になります。文人でもあり「凌雲集」「日本後紀」の編纂にもあたります。大宰大弐として着任した際、道端に行き倒れた人々を目の当たりにし、これをあわれみ救済施設「続命院」を創設します。
余談になりますが、幕末維新に活躍した医師・高松凌雲の号は福祉に勤めた岑守の編纂した「凌雲集」が元になっているのかもしれません。




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