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名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【岩屋城跡】-太宰府市観世音寺-



岩屋城跡

【岩屋城跡(本丸跡)】
岩屋城は永禄2年(1559)宝満城の支城として豊後大友氏の武将高橋鑑種によって築かれた 同12年彼は 主家大友宗麟に叛き城を追われ 代わって吉弘鎮理(後の名将高橋紹運)が城主となった 紹運は天正14年 (1586)九州制圧を目指す島津5万の大軍を迎え撃ち 激戦十余日 秀吉の援軍到着を待たず玉砕し落城した。

太宰府市

「浦ノ城跡(本丸跡)」の案内板より


この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の反乱も1556年小原鑑元、1565年立花鑑載と起こっています。
結局、高橋鑑種の抵抗は失敗し追われますが、これら部下たちの反乱は「下剋上の世」だけでは済まされない事情がありそうです。 そんな中、この君主を最後まで支えた中心的家臣が立花道雪と高橋紹運でした。




高橋紹運墓入口の案内石

【高橋紹運公並びに勇士の墓】
戦国の武将高橋紹運は23歳で岩屋城主となり名将の誉れ高かった。天正14年(1586)北上した島津5万の軍と戦い  城兵763名と共に玉砕した 時に39歳であった 紹運以下勇士たちここ二の丸趾に眠る

  辞世歌 流れての末の世遠く埋もれぬ
         名をや岩屋の苔の下水
                         太宰府市
   

「高橋紹運公並びに勇士の墓」の案内板より

右上写真の入口案内石より、少し下ったところに、高橋紹運公と将兵たちの墓があります。








検索の結果 21件の記事が見つかりました


榎社(太宰府市朱雀)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
 不出門 一從謫居就柴荊 萬死兢々跼蹐情 都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲 中懐好逐孤雲去 外物相逢満月迎 此地雖身無検繋 何為寸歩出門行 .....

都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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学校院跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
「筑前国続風土記」では、「学業院(学校院)は吉備真備(きびまきび)が建てたと伝えられているが、おそらく真備が天平6年(734)、大宰大弐に任じられた時の事ではないか」と推測しています。 また神護景雲3年(769)には大宰府より「この地は人が多く天下の一大都市です。学生は多く、ある程度の.....

日吉神社(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
案内板に記載されている「江戸時代の地誌」とは貝原益軒の「筑前国続風土記」のことで、この神社は「山王社」の名で紹介されています。 その中には「豊臣秀吉は島津を降伏させ筑前に戻ると、安楽寺(太宰府天満宮?)に詣でるが、 その時この神社に陣をとった。」といったことが書かれています。 とこ.....

戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

岩屋城跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の.....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。 .....


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福岡悲話
 【筑後みやまの平家伝説】(平安時代)-平家の史跡-

壇ノ浦の戦いで生き残った平家の一団は船または徒歩で博多を経て、そこから大宰府に向かったものと思われます。ただ頼りの原田種直は「葦屋浦の戦い」で源範頼に敗れもう平家の人々を守る力も気力もなかったのかもしれません。
そこから一行は源氏の追手を逃れるために行くあてもなく薩摩街道を南へ南へと急ぎます。
ただ女人を伴う行軍で思うように進めなかったと想像され、現在の筑後市尾島あたりで源氏の追手に追いつかれ戦闘が起こり、多くの平家の武者が討ち取られます。
現在その遺骸を葬ったといわれる地に「一之塚源平古戦場跡」の塚と碑が建てられています。

その場を逃れわずかな数となった落人たちは先を急ぎますが10㎞ほど南のみやま市山川町甲田あたりで再び追手に追いつかれます。わずかな将兵は女人を先に逃がし、現在の飯江川と待居川の交わるあたりで源氏の兵を迎え撃ち行く手を塞ぎますが、寡兵かなわずたちまち打ち破られます。
この地は現在整備され要川公園となり、そこには「平家最後の合戦の地」の碑が置かれています。
そして先に逃れた女人たちも川添いに袋小路の山側に分け入り行く手は渓流の水と岩、臨めるものは山の壁、もはやこれまでと七人の女人たちは行き当たった滝で自ら命を絶ちます。 ここが「七霊(ひちろう)の滝」と言われるところで、現在では社が建てられ、今も滝の音が響いています。


以上は筑後市、みやま市の旧跡を辿り現地の案内板の内容より想像した「筑後みやまの平家伝説」になります。史跡の所在地は次の通りです。
〇一之塚源平古戦場跡 ‥‥‥ 筑後市大字尾島619
〇平家最後の合戦の地 ‥‥‥ みやま市山川町 要川公園
〇七霊の滝 ‥‥‥ みやま市山川町甲田1089









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スポットライト人物伝


【菊池武時(きくちたけとき)】
(1292年~1333年)


鎮西探題・北条英時の呼びかけで博多に参陣した肥後の菊池武時はこれを好機と捉え鎮西探題打倒の旗を揚げ北条英時の探題へ討ち入ります。 しかし探題打倒の密約を交わしていた少弐、大友両氏は探題側につき菊池武時は討たれます。 武時は前夜に少弐貞経、大友貞宗に決起要請の使者を送っていたので、当然、鎮西探題側は武時の動きを察知していたことになります。 武時もこの事は承知の上で決死の討入りだったようで、鎮西探題へ.....[全文を表示]



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