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名所旧跡・太宰府・筑紫野
 【日吉神社】-太宰府市観世音寺-



日吉神社

【日吉神社】
観世音寺の鎮守であり、地元ではヒヨシ神社と呼ばれる。 比叡山の日吉(ひえ)大社を分霊したもので、平安時代末には置かれていたらしい。 江戸時代の地誌によると”豊臣秀吉が九州下向の折、この日吉社に陣を張ったが、 時の観世音寺の別当は世情に疎く、秀吉の威光を憚ることなく車に乗ったまま面前に出て秀吉の怒りをかい、寺領を没収された”と伝えられる。

太宰府市
「日吉神社」の案内板より


案内板に記載されている「江戸時代の地誌」とは貝原益軒の「筑前国続風土記」のことで、この神社は「山王社」の名で紹介されています。 その中には「豊臣秀吉は島津を降伏させ筑前に戻ると、安楽寺(太宰府天満宮?)に詣でるが、 その時この神社に陣をとった。」といったことが書かれています。
ところで寺領を没収された観世音寺の別当は、秀吉の威風を知らなかった訳ではなく「軍は仏法を犯すべからず」といった意識が強かっただけなのかもしれません。 そして秀吉は九州を平定し天下統一を目前にしたこの頃より徐々に明朗快活な性格を霞ませながら権力の虜となってゆくことになるのです。








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戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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岩屋城跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
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奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
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徒然草





名所旧跡・京築
 【おこしかけ】-豊前市四郎丸-


「おこしかけ」の由来

JR日豊線豊前松江駅の東南方に細長い台地があり、そこは「おこしかけ」の名で呼ばれている。
 往古、神功皇后(じんぐうこうごう)が豊前路巡幸の折に、その地にあった石に腰を下ろしてしばしの休息をとったので、それ以来「おこしかけ」の地名がついたのだと言われる。眼下に豊前海を一望できる風光明媚な場所である。
 神功皇后について語り伝えられるところによれば、四世紀の終わり頃、熊襲(くまそ)との戦いのさなかに夫の仲哀天皇が亡くなり、皇后は応神天皇を身ごもったまま、武内宿禰(たけのうちのすくね)と計って朝鮮半島は新羅(しらぎ)へ出兵したという。また帰国後は、応神天皇即位までの六十九年間摂政をつとめたとされる。
 神功皇后は宇佐神宮の祭神である。大きな古墳の上に建つ宇佐神宮は三つの神殿が横に並んで本殿を形成しているが、神功皇后はその第三御殿に祀る(まつ)られている。
 奈良時代以降、朝廷の宇佐八幡に対する崇敬はすこぶる篤(あつ)く、天皇の即位や国家の変事が生じた際には、奉弊(ほうへい)あるいは神意をうかがうために勅使(ちょくし)がしばしぼ宇佐へ派遣された。そして、松江の海岸線から四郎丸、田渕をへて宇佐へと向かう道筋は、その宇佐使が通る勅使街道にあたった。それゆえ、豊前の地には、大富神社の「勅使井」をはじめとして宇佐八幡にまつわる様々な歴史か刻まれ、「拝みの松」の和気清麻呂伝説や「おこしかけ」の神功皇后伝説など多くの伝説が今に語り継がれることになったのである。

豊前市教育委員会

国道10号線沿いの「道の駅おこしかけ」に置かれている案内板より









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スポットライト人物伝


【武内宿禰(たけのうちすくね)】
(?~?)


日本書紀には筑紫にて神功皇后の補佐をした記述もある人物です。景行天皇から仁徳天皇まで5代の天皇に仕え、 日本書紀の記述が正しいとすれば武内宿禰は300歳近い寿命を全うしたことになりますが、武内氏が数代にわたって歴任した役職ではないかともいわれています。



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