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榎社(太宰府市朱雀)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
 不出門 一從謫居就柴荊 萬死兢々跼蹐情 都府樓纔看瓦色 観音寺只聴鐘聲 中懐好逐孤雲去 外物相逢満月迎 此地雖身無検繋 何為寸歩出門行 .....

都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の74.....

学校院跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
「筑前国続風土記」では、「学業院(学校院)は吉備真備(きびまきび)が建てたと伝えられているが、おそらく真備が天平6年(734)、大宰大弐に任じられた時の事ではないか」と推測しています。 また神護景雲3年(769)には大宰府より「この地は人が多く天下の一大都市です。学生は多く、ある程度の.....

日吉神社(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
案内板に記載されている「江戸時代の地誌」とは貝原益軒の「筑前国続風土記」のことで、この神社は「山王社」の名で紹介されています。 その中には「豊臣秀吉は島津を降伏させ筑前に戻ると、安楽寺(太宰府天満宮?)に詣でるが、 その時この神社に陣をとった。」といったことが書かれています。 とこ.....

戒壇院(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
鑑真和上は日本僧の栄叡、普照の要請により743年より日本へ渡航を試みます。しかし弟子の反対や嵐により5度の失敗を繰り返し、753年ようやく渡日に成功します。1回目の渡航計画より11年の月日が流れていました。 九州に上陸した鑑真和上はまず大宰府の観世音寺に入り、初の授戒を行います。翌年.....

観世音寺(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
661年7月、女帝斉明天皇は百済救援のため滞在していた朝倉橘広庭宮で突然崩御します。中大兄皇子はこの母の供養ため大野山の麓に寺院創建の命を出しました。これが観世音寺です。 その2年後「白村江の戦い」に敗れ、防衛のため那の津の「官家」を内陸部に移すことになりますが、その移設の先がこの観世音寺.....

岩屋城跡(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
この城を築城した大友家の有力武将、高橋鑑種(あきたね)は、1567年に主君大友宗麟に反旗を翻します。 その理由はよくわかってはいませんが、宗麟が鑑種の兄、一万田親実の夫人を奪うために親実を殺害したからではないかとの説があります。 大友宗麟にはこのような話が他にもあり、また配下の武将の.....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

奈良時代の権力闘争(716年)【福岡史伝・奈良】
奈良時代というと個人的には ほのぼのとしたイメージが強いのですが、かって文豪が書いた「兎角にこの世は住みにくい」という言葉の如く、この時代も他の時代を凌ぐ熾烈な権力闘争が繰り広げられていました。 729年、時の実力者の長屋王が邸宅を朝廷の軍勢に囲まれ自害します(長屋王の変)。これは藤原四兄.....

戒壇院建立(761年)【福岡史伝・奈良】
753年渡日した鑑真和上は観世音寺に入り初の授戒を行いますが、 その18年後の761年、その地に戒壇院が建立されました。ここは「西戒壇(さいかいだん)」とも呼ばれ、 東大寺の「中央戒壇」と下野薬師寺の「東戒壇」とともに天下の三戒壇とされました。 .....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

更新履歴…アップした日付

訂正履歴…間違い直しの履歴です

はじめに…お願いと参考書

 
新着情報

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板垣死すとも自由は死せず
-遊説中に暴漢に刺された時に叫んだ言葉-
板垣退助





わかっていない事
 【神功皇后伝説は伝説?】-朝鮮半島への進出-

仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。 仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様に、熊襲(くまそ)平定を目指し九州に入ります。しかし仲哀天皇は橿日宮(香椎宮・福岡市東区香椎)で突然亡くなります。これは同行した神功皇后に「熊襲より新羅を攻めるように」と神託があったにも関わらず、仲哀天皇はそれを信じず、神の怒りが下ったためと古事記に書かれています。
その後、神功皇后は新羅と戦うために朝鮮半島へ渡ります。神功皇后はこの時、後の応神天皇を身ごもっていましたが、出産を遅らせるために石をお腹にあて冷やしたといわれています。この石が「鎮懐石」といわれ糸島市二丈町深江の「鎮懐石八幡宮」に祀られているとのことです。そして神功皇后は帰国後、宇美八幡宮で応神天皇を生みますが、これが安産であったことから宇美八幡宮は安産祈願の神社として知られるようになりました。

神功皇后の朝鮮遠征が何年頃のことなのか確かなところはわかっていませんが、西暦300年代に、三国動乱時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ倭国が干渉して行ったのは確かな事だと思われます。 倭国軍は朝鮮南岸、百済と新羅の間の伽耶に駐屯し百済と連携しつつ、新羅、高句麗と戦ったといわれ、その行動は高句麗の「広開土王陵碑」やその他の各国の史書に記載されています。そして倭国の朝鮮駐屯は新羅が伽耶を併合した西暦500年代中頃まで二百年程続いたものと想像されます。

以上、神功皇后が実在の人物と仮定した場合の話ですが、神功皇后は日本武尊、仲哀天皇と共に実在しなかったのではないかといった説も根強くあります。しかし九州北部には神功皇后を祀る神社や史跡があまりにも多く存在するという事実だけは否定できないのです。









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スポットライト人物伝


【平貞能(たいらさだよし)】
(?~?)


鎮西反乱が起こると1181年、筑紫に派遣されその翌年には乱を平定し一旦帰還しますが、都は木曽義仲の軍が迫り大混乱の中にありました。貞能は「都に留まるべき」と主張しますが、平家一門は西へ落ちて行き、仕方なく貞能もその後を追って大宰府に入ります(平家物語では東国に向かい宇都宮朝綱の元に身を寄せたとされています)。しかし、今度は豊後の緒方惟義が九州退去を勧告し兵3万で大宰府に迫ります。一門は着の身着のま.....[全文を表示]



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