孫子の兵法の事

「孫子」は中国の春秋時代末(今から2500年ほど前)に孫武によって書かれたと言われる兵法書ですが、日本でも古くから軍事を学ぶテキストとして多くの人が通読していたようです。当然、黒田官兵衛や竹中半兵衛も若き頃にこの兵法書を繰り返し読んだものと想像されます。
ちょっとこじつけの感もありますが、その中から彼等の言葉や行動に影響を与えたと思われる孫子の言葉を取り上げてみようと思います。
 
 
 
□兵とは詭道なり
戦は騙し合いで事前に展開を想定できない。そこで状況に合った柔軟な行動が必要となる。
 
半兵衛から「毒も良薬となる事もあろう」と評された官兵衛は秀吉の他、小早川隆景、蜂須賀小六など親しい人々からも才能を認められる反面、大なり小なりの疑いを持たれていたようです。
「人生とは詭道なり」官兵衛は心の片隅でそう考えていたのかもしれません。


 
□算多きは勝ち算少なきは勝たず
戦では計算高い者が勝ち、計算の足らない者は敗れる。
 
官兵衛も半兵衛も平常時より情勢分析と戦争状態に入った場合のシミュレーションを怠りなく行っていたのではと想像されます。


 
□知将は努めて敵に食む
知将は兵糧を自国だけに頼らず、敵地で調達するものだ。
 
秀吉は鳥取城攻めに先立ち鳥取城周辺の米を相場の2倍の価格で買占めます。このため鳥取城では籠城時に兵糧を手配できず、城内には1ヶ月分の兵糧しか用意できませんでした。そして4ヶ月の籠城の末、鳥取城は開城しますが、この時に城内に入った秀吉軍の兵士たちは飢えに苦しむ人々の凄惨な状況を直視できなかったといわれます。


 
□百戦百勝は善の善なる者にあら非ざるなり、戦わずして人の兵を屈するは善の善なる者なり
全戦全勝は最善の方法ではない。戦わずに敵を従わすのが最善のやり方である。
 
官兵衛は無駄な戦を避けるため、敵対する武将の城へ乗り込むような行動を幾度かとっていますが有岡城ではこの行動が裏目に出て1年間も幽閉される憂き目に遭っています。しかしこの出来事に懲りず、その後の北条征伐では小田原城に単身で乗り込み会談、無血開城のきっかけを作っています。
「戦わずして人の兵を屈する」これは官兵衛の一番大切にした言葉だと想像されます。


 
□彼を知り己を知れば百戦して殆(あや)うからず
敵を知り自分を知れば何度戦おうとも危ないことはない。
 
孫子には「用間篇」という部分がありますが、これは間者(スパイ)に関する心得を語ったものです。官兵衛も半兵衛も当然として間者や独自の通信網を利用し、敵情や各国の情勢を収集していたと思われます。また自軍と敵軍との経済力、軍事力の比較シミュレーションは当時の武将たちにとっては必要不可欠なことだったに違いありません。


 
□善く戦う者は勝ち易きに勝つ者なり
戦(いくさ)上手とは勝利への筋道を立てて簡単に勝ってしまう者のことである。
 
極論を言えば勝算のない戦はしない事。官兵衛も半兵衛もそう考えていたことでしょう。


 
□善く戦う者はこれを勢いに求めて人に責(もと)めず
戦上手の者は勢いを重視し、他の力を頼りにするようなことはしない。
 
戦いに勢いというものは大切で、勢いに乗った軍勢は止めることができない。采配ひとつで軍を動かす者として秀吉も半兵衛も官兵衛も「勢い」の恐ろしさを身をもって知っていたのではないでしょうか。時代は変りますが幕末の幕臣・勝海舟は「気合(勢い)が人にあると見たらすらりとかわし、自分にあれば油断なくずんずん押して行くのだ」といった事を語っています。


 
□善く戦う者は人を致して人に致されず
戦上手の者は常に自分ペースで進め、人のペースに乗せられる事はない。
 
官兵衛は播磨時代、中国攻め、中津時代と常に能動的な行動をとっています。他の武将たちが日和見や主君からの指示を待っている間に、官兵衛は自分の進む道を現実化させるため先手先手で活発な動きをしていたのです。


 
□鼓金、旌旗なる者は、民の耳目を壱にする所以(ゆえん)なり
戦いで太鼓や鉦、旗を利用するのは兵士の心を一つにするためである。
 
官兵衛が戦に旗を有効利用したことは有名な話です。英賀合戦では百姓たちに沢山の自軍旗を持たせ毛利の大軍を翻弄抑制します。また中国大返しで毛利家や宇喜多家から借り受けた家紋入りの旗を山崎合戦で掲げ明智軍の士気をくじいたといわれています。また味方の軍にも旗を借り受けた事は伏せ「毛利、宇喜多が我等に援軍したり」と吹聴して廻ったのかもしれません。


 
□囲師(いし)には闕(けつ)を遺し、帰師(きし)は遏(とど)むなかれ
囲まれた敵には逃げ道を残し、自国に逃げ帰る敵には立ちはだかってはいけない。
 
山崎の戦いに敗れた明智軍は勝竜寺城に逃げ込みますが、これに秀吉の軍は北側に逃げ道を開けて包囲します。明智軍の各部隊はこの逃げ道から北方にある本拠地の坂本城を目指し続々と落ちて行きますが、秀吉の軍はこの敗走する部隊を背後から攻撃し容易く破りました。この策は城攻めで自軍に大きな犠牲がでる事を危惧した官兵衛が提案したものといわれています。


 
□主は戦う無かれと曰うも、必ず戦いて可なり
君主や民の利益のためならば君主の命に従わず自分で判断し行動すべき場合がある。
 
これは「利があれば君主から戦わないよう指示があっても戦ってよく、利がなければ君主より戦うよう指示があっても戦ってはいけない」といった言葉です。そして「君主の命に従わなかったことに関してはその責任から逃れようとしてはいけない」という言葉が続いています。
1578年、荒木村重の謀反で官兵衛の裏切りを疑った信長は人質の松寿丸(官兵衛の嫡男)を殺害するよう命じます。しかし竹中半兵衛は信長の命令を実行せず松寿丸を匿います。のちに官兵衛の疑いは晴れ、信長は松寿丸が生きていることを知り喜んだといわれます。


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