半兵衛と官兵衛

竹中半兵衛との接点は官兵衛が信長に謁見した1575年頃から1578年に有岡城で荒木村重に拘束されるまでの約2~3年の僅かな期間です。 この二人は秀吉の元で同じ参謀として働くのですが、性格はまったく対照的なものだったようです。 半兵衛は「知らぬ顔の半兵衛」という言葉が残るように感情を表に出さず、自分の才能を顕示するところもなかったようです。 これに対し弁舌の利く官兵衛は才気走り「能ある鷹は爪を隠さず」といった面があったのではないかと思われます。 始め秀吉配下の武将たちはこの能弁の士の人間性に疑いを持ちますが、 その時 竹中半兵衛は「毒も良薬となる事もあろう」と官兵衛を弁護したといわれます。 またある時、官兵衛は約束の証文の内容を履行しない秀吉に不満を抱きますが、 その証文を見せるように所望し受け取った半兵衛は、官兵衛の目の前でその証文を破り捨て、火鉢に投じます。 唖然とする官兵衛に「このような紙切れ一枚で、貴殿が大道を見失なうのはもったいない事じゃ」といった事をつぶやきます。 物事を悟るのに聡い官兵衛はすぐこの言葉の裏側に、不満たらたらの我が部下に逆ギレ寸前の秀吉の存在があるのを知ったのかもしれません。
そして官兵衛が有岡城に幽閉されている合間に、織田信長より殺害命令のあった嫡男・松寿丸(後の黒田長政)を匿い命を救った半兵衛は1579年36歳の若さで病没します。 それから4ヵ月後の有岡城の落城で開放された官兵衛は幽閉の間の事情を知り、この二歳年上のもう会う事のない先輩軍師に深く感謝したといわれてます。

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