如水の隠居生活

1589年、官兵衛は如水と名乗り長政に家督を譲り隠居しようとしますが秀吉に許されず、 実際に隠居生活に入るのは12年後の「関ヶ原の戦い」の翌年でした。 隠居した如水は太宰府に庵を結び和歌・連歌を楽しんだと言われます。 如水は14才の頃に母を亡くしたのをきっかけに和歌にのめり込むもの戦国の時代背景がそれを許さず、その世界から遠ざかるしかありませんでした。 隠居後に和歌に没頭したのはこの時の想いが心の底に残っていたからかも知れません。 如水にとって和歌・連歌に通じる人が多い太宰府は格好の隠棲の地だったのでしょう。
また如水は近隣の子供たちを自邸に招き思う存分に遊ばせたと言われますが、城内に子供たちを招くという事は考え難いため、 この話は太宰府の草庵での事ではないかと思われます。
秀吉に付き従い休む間もなく戦場を行き来した頃に比べると、 なんともゆったりとした時間を過ごす如水の姿が想い浮かびます。

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