神功皇后伝説は伝説?

-朝鮮半島への進出-

仲哀天皇とその皇后、神功皇后は実在の人物かどうか意見が分かれているようですが、実在の人物と仮定すれば、西暦300年代前半あたりに存在した人だと思われます。以下は2人が存在したことを前提に話を進めます。
仲哀天皇は祖父の景行天皇や父の日本武尊(やまとたけるのみこと)と同様に、熊襲(くまそ)平定を目指し九州に入ります。しかし仲哀天皇は橿日宮(香椎宮・福岡市東区香椎)で突然亡くなります。これは同行した神功皇后に「熊襲より新羅を攻めるように」と神託があったにも関わらず、仲哀天皇はそれを信じず、神の怒りが下ったためと古事記に書かれています。
その後、神功皇后は新羅と戦うために朝鮮半島へ渡ります。神功皇后はこの時、後の応神天皇を身ごもっていましたが、出産を遅らせるために石をお腹にあて冷やしたといわれています。この石が「鎮懐石」といわれ糸島市二丈町深江の「鎮懐石八幡宮」に祀られているとのことです。そして神功皇后は帰国後、宇美八幡宮で応神天皇を生みますが、これが安産であったことから宇美八幡宮は安産祈願の神社として知られるようになりました。
神功皇后の朝鮮遠征が何年頃のことなのか確かなところはわかっていませんが、西暦300年代に、三国動乱時代(高句麗、新羅、百済)の朝鮮へ倭国が干渉して行ったのは確かな事だと思われます。
 
倭国軍は朝鮮南岸、百済と新羅の間の伽耶に駐屯し百済と連携しつつ、新羅、高句麗と戦ったといわれ、その行動は高句麗の「広開土王陵碑」やその他の各国の史書に記載されています。そして倭国の朝鮮駐屯は新羅が伽耶を併合した西暦500年代中頃まで二百年程続いたものと想像されます。
 
以上、神功皇后が実在の人物と仮定した場合の話ですが、神功皇后は日本武尊、仲哀天皇と共に実在しなかったのではないかといった説も根強くあります。しかし九州北部には神功皇后を祀る神社や史跡があまりにも多く存在するという事実だけは否定できないのです。