日本国王・良懐とは誰? (1370年)

-明の抗議に応対した親王-

時は南北朝の時代、後醍醐天皇の皇子・懐良親王(かねながしんのう)は菊池武光の支援を得て1361年に大宰府を奪い、九州の北朝勢力をほぼ制圧します。この懐良親王、菊池武光の活躍に隠れてなかなか人間性が見えてこないのですが、明の史書「明史」には親王の人間性が鮮やかに描かれています。
倭寇に手を焼いた明の洪武帝(こうぶてい)は趙秩(ちょうちつ)という者を抗議の使者として日本へ送ります。趙秩は日本が明に服従しないことを咎める内容の国書を持参しますが、これに応対した懐良親王は「元寇」を引き合いに出し「貴殿は元(げん)の使者の趙良弼(ちょうりょうひつ)と同じ苗字だが、もしかして蒙古の子孫ではないのか?良弼と同じようにたぶらかし我が国を攻めるつもりであろう」と左右の者に目配せして趙秩を斬らせようとしますが、趙秩は動じる事なく「明国を蒙古などと同じくするな、私も蒙古の子孫などでない。斬りたくば斬れ」と返します。
懐良親王はこの態度に気がくじけ(この時は始めから斬るつもりではなかったと個人的には思うのですが・・・)、高座より降り趙秩を招き入れ礼をもって待遇したといいます。
この「明史」に懐良親王は「日本国王・良懐(りょうかい)」として登場しています。


写真は「筑後川の戦い(大原合戦)」で勝利するものの、負傷した懐良親王が傷の全快に感謝して大中臣神社に植樹したと言われる「将軍藤」になります。