金印発見 (1784年)

福岡の志賀島は神奈川の江ノ島と同じ「陸繋島(りくけいとう)-砂州で本土とつながる島-」で夏になると大勢の海水浴客で賑わいます。

1784年、金印はこの島の南端、叶の崎で小作人の秀治と喜平によって田んぼの中から発見されます。金印は甘棠館(かんとうかん、福岡藩藩校)の館長、亀井南冥の元に届けられ、後漢の光武帝より送られた「漢委奴国王」印と鑑定されます。判定の元となった文献は432年、中国の南北朝時代の范曄という政治家によって書かれた「後漢書(ごかんじょ)」という書物で次の通り書かれています。

「建武中元二年(57年)、倭の奴国、貢を奉じて朝賀す。使人は自ら大夫と称す。倭国の極南界なり。光武、賜るに印綬を以ってす。」

光武とは後漢の初代皇帝、光武帝のことで、「項羽と劉邦」で有名な前漢の創始者、劉邦の子孫にあたります。前漢と後漢は同一の劉家が統治したので同時代と考えてもよいと思うのですが、王莽という臣下に15年ほど簒奪され「新」という国を建てられたため、前漢、後漢に歴史上分けられています。
この光武帝は人徳も厚く、無駄な血を流さずに混乱した中国を統一したということで、歴史を知る後世の人々からも好感を持たれています。この皇帝の金印が出土したのですから、これは世紀の大発見となりました。しかし、この大発見に疑問を投げかける人々も出てきました。
この「金印偽物説」についての詳細はここでは省きますが、詳しい事を知りたい方はネットでググッてみて下さい。