福岡の変 (1877年)

熊本、秋月、萩の乱が醒め遣らぬ1877年2月、薩摩の私学校生たちの暴発に引きずられる様に西郷隆盛が決起すると、福岡でも薩軍に呼応するため元福岡藩士の武部小四郎や越智彦四郎が準備を始めます。
そして薩軍の決起より約2ヵ月後の3月27日、200名余りで兵を挙げますがこの頃、薩軍は田原坂周辺で政府軍との戦闘中で一進一退を繰り返す状況でした。田原坂より100キロほど北方の福岡は政府軍の勢力圏で、頻繁に本州から下って来た政府軍の援兵が熊本方面へ南下して行きます。
福岡城の襲撃に失敗した越智彦四郎率いる約150の兵はこの様な状況の福岡に留まる訳にもいかず、薩軍に合流するため南へ向かいます。途中で轟警察署(鳥栖)を襲いますがここでも失敗、熊本への行軍を断念し目的地を秋月へ変更します。その途の小郡北部で官軍の挟撃に合い30名以上が斃れます(彼岸土居古戦場)。残った兵は秋月方面に逃れますが、政府軍に抵抗する力も尽き捕縛されます。
5月2日、越智彦四郎、加藤堅武、久光忍太郎、村上彦十が斬首、博多に潜伏していた武部小四郎もこの日に捕縛され翌3日に斬首されました。これは、西南戦争が終結する4ヶ月前のことでした。
これにより武力による新政府への抵抗は終わりを告げますが、「秋月の乱」や「福岡の変」に参加し生き残った若者たちは自由民権運動に走り、また「玄洋社」を立ち上げ日本の政治に深く関わって行くことになります。


この変で刑死した加藤堅武、武部小四郎は「乙丑の獄」で切腹した筑前勤皇党の加藤司書、建部武彦の子息であり、
幕末から明治維新へかけて福岡の士族の苦悩の深さを感じざるを得ません。