岩門合戦-霜月騒動- (1285年)

「弘安の役」から3年後の1284年、北条時宗が病没すると鎌倉で御家人の安達泰盛と得宗家執事の平頼綱の確執が激しくなります。翌1285年11月、両者間で小競り合いが起きそれが戦いまでに発展します。そして安達泰盛が敗れると一族および安達派の御家人は次々と攻められ討ち死に自害して行きます。
これが「霜月騒動」ですが、この事件は地方にまで拡大し常陸、信濃、播磨などで安達派の人々が粛清されます。筑前では安達泰盛の子、安達盛宗が博多で少弐経資に討たれ、経資の弟の少弐景資も安達派だったため岩門城(いわとじょう)に籠りますが経資はこちらにも兵を送り城を攻め落とし、景資を自害させます。
そして鎌倉幕府はこれら粛清された御家人たちの所領の一部を元寇の恩賞として配分したといわれます。


ところで「霜月騒動」で自害した安達泰盛という人は文化人の間でも名の知れた人だったようで、吉田兼好は「乗馬の達人」として取り上げ、一遍上人は「大きな人」と評しているようです。また「蒙古襲来絵詞」で有名な肥後の竹崎季長はこの絵巻の中に少弐景資、安達盛宗、安達泰盛を描かせており、恩賞を直訴した安達泰盛からは海東郷の地頭に任じられたことも記載しています。
そしてこの絵巻の最後に「永仁元年(1293年)二月九日」と書き入れています。この1293年という年は「霜月騒動」の仕掛人、平頼綱が滅ぶ「平禅門の乱」の起こった年でもありました。