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名所旧跡・太宰府・筑紫野 【都府楼跡-大宰府政庁跡-】-太宰府市観世音寺-
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の740年に反乱を起こします。 乱は2ヶ月で鎮められましたが、大宰府は数年間廃止された状態になります。 901年には菅原道真が大宰権帥に左遷されますが、大宰府政庁に出仕することはなかったようです。 左遷というよりも、流されたといった表現の方が正しい状況だったと思われます。その40年後「藤原純友の乱」がおこり、博多より上陸した純友軍の攻撃によって大宰府は炎上します。 1158年平清盛が大宰大弐となり、日宋貿易に力を入れるため博多に人工港「袖の湊」を造っています。ただ、清盛自身が大宰府に赴任した形跡はないようです。 1190年代には武藤資頼が大宰少弐に任命されます。資頼は武家台頭の現れともいえる御家人初の大宰少弐職の就任となりました。資頼の子、資能はその職名を姓とし少弐を名乗ります。以後、少弐氏は北部九州の守護を務め戦国時代まで続いてゆくことになります。
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わかっていない事 【「筑前宮崎村」はどこにある?】-福岡と熊本の宮崎兄弟は同族?-
ところでこの宮崎兄弟の生家の案内板には「宮崎家の祖は筑前御笠郡宮崎村の住人で・・・」 と宮崎家の祖が筑前にあったことが記載されています。 しかしこの「筑前御笠郡宮崎村」は現代地図や筑前古地図をいくら探してみてもそれらしい地名が見つからず、また貝原益軒の「筑前国続風土記」にも宮崎村は登場しないのです。 ただ現在の筑前町の依井(よりい)には字(あざ)宮崎という住所があり、もしかしたらここが八郎や滔天ら兄弟の祖が住んだ宮崎村なのかもしれません。 そしてこの依井より北東へ6㎞ほどのところに秋月城があり、依井は黒田秋月藩の領内だったということから「秋月の乱」の中心人物・宮崎兄弟と荒尾の宮崎兄弟は同族の宮崎氏だった可能性が出てくるのです。 ただし筑前古地図ではこの筑前町依井という土地は「御笠郡」ではなく隣の「夜須郡」になっており、宮崎兄弟の生家の案内板の内容と異なっています。 「筑前、肥後の宮崎兄弟同族説」はなんの証拠もないあくまでも想像の域を出ない話なのですが、真実を追う事とは別に、このような想像力を逞しくして考える事が歴史を探求する原動力となるのかもしれません。 余談になりますが、ここで取り上げた宮崎滔天は、飯塚の石炭王・伊藤伝右衛門の妻・柳原白蓮と駆け落ちした宮崎龍介の父親になります。 この白蓮事件で絶縁状を受けた伊藤伝右衛門は「末代まで一言の弁明も無用」と2人の仲を妨げるようなことはありませんでした。そして白蓮が10年ほど生活した旧伊藤伝右衛門邸は現在では飯塚市の観光名所となっています。 |
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