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余談
 【都井岬の馬】

天然記念物「御崎馬」(串間市都井岬)
宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。
秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代、秀吉の九州征伐の際には九州の雄・島津氏に属して抵抗したため、島津氏の降伏後に筑前・秋月より日向に転封されたのですが、 私はこの転封先を最近まで「日向・高鍋」とばかり思っていました。 しかし「都井岬の馬」のことを調べているうちに転封先は「日向・串間」であり「関ヶ原の戦い」以後に高鍋に移り高鍋秋月藩が成立した事を知り、慌てて秋月氏に関する記事を訂正することとなりました。
ところで都井岬の野生馬は現在の競走馬に比べると、一回り小さい体躯を持つようです。実際のところ戦国時代の武将達は歴史ドラマで見る様な背の高い馬ではなく、この様なひと回り小柄な馬に跨り、戦場を駆け巡ったのかもしれません。






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歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
中学時代、秀才と言われる学友は受験前になるとこの歴史語呂合わせを日常会話の中で披露して人を笑わせていましたが、勉強嫌いな私はほとんど興味をそそられる事はありませんでした。 高校受験には間に合いませんでしたが、最近、多少興味を持ったのでここに残そうと思います。 漢倭奴国王印(57年)…金印.....

秋月城跡(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
秋月氏について 秋月氏の祖は「藤原純友の乱」で小野好古と共に乱を平定した大蔵春実といわれ、乱平定後は大宰府より南に6㎞ほど離れた原田(はるだ)に居を構え原田氏を名乗ります。 その後、原田氏は「源平の戦い」で平氏につき敗北、源氏より所領を没収されます。 しかし将軍が頼.....

都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の74.....

博多総鎮守 櫛田神社(博多区上川端町)【名所旧跡・博多区】
博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野.....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

平安時代(菅原道真左遷と藤原純友の乱)【一夜漬け福岡史】
901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。 遺体は大宰府東方の安楽寺に埋葬されますが、後にその地に社殿が建立されます。これが太宰府天満宮の起源になります。 そして菅原道真の左遷から.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

都井岬の馬(2014年8月28日)【余談】
宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。 秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代.....

藤原純友(893年~941年)【福岡人物伝】
瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った藤原純友の軍は本拠地の伊予を朝廷軍に制圧されると、 筑紫に逃れ大宰府を襲い観世音寺で略奪を行います。 しかし博多湾で朝廷軍に破れ伊予に逃げ戻りますが、そこで捕らえられ獄死する事になります。 .....

大蔵春実(?~?)【福岡人物伝】
前漢高祖・劉邦、後漢光武帝・劉秀の血を受け継ぐといわれる人物で朝廷より「藤原純友の乱」の平定に派遣されます。 乱の平定後は大宰府南方の原田に屋敷を置き大宰大監(だざいだいかん)に就任します。その後、京都に戻りますが その地に残った子孫は地名の原田氏を名乗り筑紫の豪族となります。また江戸時代の米沢藩の.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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独行道





福岡史伝・幕末・維新
 【平野國臣の倒幕活動】(1858~1864年)

中央区西公園 平野國臣銅像
平野國臣が歴史の表舞台に登場するのは、1858年の「安政の大獄」で幕府に追われる僧・月照の警護役で薩摩藩まで付き添った時だと思われます。結局、薩摩藩は月照を受け入れず、西郷隆盛は月照と共に錦江湾へ入水します。西郷は助けられ月照は没しますが平野國臣はこの船に同船していたといわれています。
それから約3年後の1862年4月に國臣は薩摩藩士と共に京都所司代襲撃を計画しますが、島津久光の命を受けた別の薩摩藩士に捕らえられ、福岡藩に引き渡されます。國臣は福岡で投獄されますが、そこでは筆を与えられなっかたためコヨリで文字を作り紙に貼り付け文章を書きます。これが「平野國臣紙撚文書」といわれるものです。
翌年の1863年3月には許され京都に上りますが「8月18日の政変」が起こり尊王派は京都から追われます。そこで10月に七卿の一人の沢宣嘉を擁し天領の生野で挙兵(生野の変)しますが主導部の意見が一致せず、あえなく失敗、捕縛され京都の六角獄へ投獄されます。
そして翌年7月に起こった「禁門の変」で京都には各地で火災が発生し、六角獄の近くまで延焼したため、囚人の脱走を恐れた幕府役人に処断され斬首されました。
子母沢寛氏の「新選組始末記」には、この時の生々しい状況が、牢獄内にあった村井正礼(まさのり)の手記「縲史」に記載されていることを紹介しています。

京都に戦火が広がり六角獄へも近づくと、獄舎は慌しくなり平野國臣等「生野の変」や「天誅組」の者たち、長州の志士が牢獄より引き出されます。牢獄内に残された村井正礼は何事かと様子を窺います。

「既ニシテ刑壇ニ声在り、動静啻(タダ)ナラズ、卒(タチマ)チ聞ク国臣(平野)ノ絶命ノ歌ヲ一過スルヲ、刀声に随(シタガ)ッテ断頭ノ響アリ、予キョ然タリ(私は言葉を無くしたの意)。」

      「憂國十年 東走西駈 成敗天に在り 魂魄地に歸す」

この事件の翌日に天王山で真木和泉が自刃しており、筑前筑後の二大巨頭は時を同じくして壮絶な最後を遂げることとなりました。










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スポットライト人物伝


【少弐景資(しょうにかげすけ)】
(1246年~1285年)


少弐資能の三男で、少弐経資の弟。元寇の役では日本軍の中心人物として奮戦しますが、 戦後、鎌倉で「霜月騒動」が起こるとその余波を受け兄・経資に岩門城を攻められ自害します。 現在、那珂川町山田の城山の麓に景資の墓が残っています。



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