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余談 【都井岬の馬】 秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代、秀吉の九州征伐の際には九州の雄・島津氏に属して抵抗したため、島津氏の降伏後に筑前・秋月より日向に転封されたのですが、 私はこの転封先を最近まで「日向・高鍋」とばかり思っていました。 しかし「都井岬の馬」のことを調べているうちに転封先は「日向・串間」であり「関ヶ原の戦い」以後に高鍋に移り高鍋秋月藩が成立した事を知り、慌てて秋月氏に関する記事を訂正することとなりました。 ところで都井岬の野生馬は現在の競走馬に比べると、一回り小さい体躯を持つようです。実際のところ戦国時代の武将達は歴史ドラマで見る様な背の高い馬ではなく、この様なひと回り小柄な馬に跨り、戦場を駆け巡ったのかもしれません。 関連記事:都井岬,串間,日向 |
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福岡史伝・幕末・維新 【平野國臣の倒幕活動】(1858~1864年)
それから約3年後の1862年4月に國臣は薩摩藩士と共に京都所司代襲撃を計画しますが、島津久光の命を受けた別の薩摩藩士に捕らえられ、福岡藩に引き渡されます。國臣は福岡で投獄されますが、そこでは筆を与えられなっかたためコヨリで文字を作り紙に貼り付け文章を書きます。これが「平野國臣紙撚文書」といわれるものです。 翌年の1863年3月には許され京都に上りますが「8月18日の政変」が起こり尊王派は京都から追われます。そこで10月に七卿の一人の沢宣嘉を擁し天領の生野で挙兵(生野の変)しますが主導部の意見が一致せず、あえなく失敗、捕縛され京都の六角獄へ投獄されます。 そして翌年7月に起こった「禁門の変」で京都には各地で火災が発生し、六角獄の近くまで延焼したため、囚人の脱走を恐れた幕府役人に処断され斬首されました。 子母沢寛氏の「新選組始末記」には、この時の生々しい状況が、牢獄内にあった村井正礼(まさのり)の手記「縲史」に記載されていることを紹介しています。 京都に戦火が広がり六角獄へも近づくと、獄舎は慌しくなり平野國臣等「生野の変」や「天誅組」の者たち、長州の志士が牢獄より引き出されます。牢獄内に残された村井正礼は何事かと様子を窺います。 「既ニシテ刑壇ニ声在り、動静啻(タダ)ナラズ、卒(タチマ)チ聞ク国臣(平野)ノ絶命ノ歌ヲ一過スルヲ、刀声に随(シタガ)ッテ断頭ノ響アリ、予キョ然タリ(私は言葉を無くしたの意)。」 「憂國十年 東走西駈 成敗天に在り 魂魄地に歸す」 この事件の翌日に天王山で真木和泉が自刃しており、筑前筑後の二大巨頭は時を同じくして壮絶な最後を遂げることとなりました。 |
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