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名所旧跡・朝倉・うきは
 【秋月城跡】-朝倉市-




 【秋月の由来】
秋月という地名は正暦三年(紀元九九二年)九月二十日に筑前国府宛に太宰府が出した官符によると、九四〇年代にこの地が筥崎八幡宮の荘園になった時に秋月荘と名付けられたからのようである。 山に囲鐃されたこの盆地は外敵の侵入を防ぐには便利な土地である。従って昔から覇権を狙う者は根拠地とした。 遠くは神功皇后が古処山に拠った羽白熊鷺を討たれた。 下っては鎌倉幕府の二代将軍源頼家が、原田種雄に建仁三年(紀元一二〇三年)に秋月荘を送ったので、種雄は秋月氏と称し古処山城を中核に覇を張り十六代三八五年間、天正十五年の豊臣秀吉の九州征伐まで盛衰の歴史を繰り返した。ここの地名は俗に梅園という。 黒田長政の死後、その三男長興が五万石貰って分封されて秋月藩主となった。とき元和九年のことである。 以来廃藩置県まで十二代二四六年間、黒田氏はここの館に住んでいたのである。
甘木市教育委員会 79-03

「秋月の由来」説明板より

秋月氏について
秋月氏の祖は「藤原純友の乱」で小野好古と共に乱を平定した大蔵春実といわれ、乱平定後は大宰府より南に6㎞ほど離れた原田(はるだ)に居を構え原田氏を名乗ります。 その後、原田氏は「源平の戦い」で平氏につき敗北、源氏より所領を没収されます。 しかし将軍が頼朝から頼家に代わると原田種雄は秋月の地を与えられたため、そこに城を築き秋月氏を名乗ります。 秋月氏はそれから400年近く続きますが、豊臣秀吉の九州平定の際は島津側につき、島津降伏後に日向串間に転封されました。 明治維新期の1876年「秋月の乱」の舞台にもなったこの地は現在「福岡の小京都」と呼ばれ福岡有数の観光地となっています。 ちなみに今に残る城跡は1624年、黒田藩によって秋月氏の廃城を改修改築し支藩・秋月藩として分藩したときのものです。







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歴史語呂合わせ(2016年11月25日)【余談】
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秋月城跡(朝倉市)【名所旧跡・朝倉・うきは】
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都府楼跡-大宰府政庁跡-(太宰府市観世音寺)【名所旧跡・太宰府・筑紫野】
大宰府政庁の歴史 大宰府政庁は663年、那の津にあった官家をこの地に移したのが始まりです。 700年代の前半には大伴旅人、山上憶良などの万葉の歌人が赴任し、数多い歌が詠まれています。 738年には藤原広嗣が反藤原氏の橘諸兄によって大宰少弐に左遷され、2年後の74.....

博多総鎮守 櫛田神社(博多区上川端町)【名所旧跡・博多区】
博多の総鎮守、櫛田神社の祭神は大幡主大神、天照皇大神、素盞嗚大神の三神で、「博多祇園山笠公式ホームページ」には大幡主大神が祀られたのが757年、天照皇大神は記録になく、素盞嗚大神を祀ったのが941年のことと書かれてあります。 素盞嗚大神を祀ったのは平安時代の「藤原純友の乱」で下向し鎮圧した小野.....

藤原純友の乱(941年)【福岡史伝・平安】
四国伊予国で海賊討伐する立場であった藤原純友は936年頃に自ら海賊となり瀬戸内海で暴れまわりますが、941年2月、朝廷より鎮圧に派遣された軍に伊予国を制圧されます。 行き場をなくした純友は博多湾より大宰府へ侵攻し、都府楼に火をかけ、観世音寺で略奪を行います。 しかし同年5月には小野好古らの朝廷軍.....

平安時代(菅原道真左遷と藤原純友の乱)【一夜漬け福岡史】
901年、藤原時平等の画策により菅原道真が大宰府に左遷されます。そして二年後に多くの漢詩を残した謫居(たっきょ・配流先の住居のこと)で病没します。 遺体は大宰府東方の安楽寺に埋葬されますが、後にその地に社殿が建立されます。これが太宰府天満宮の起源になります。 そして菅原道真の左遷から.....

上杉鷹山の祖は筑前人?(大蔵春実、「藤原純友の乱」を鎮圧す)【意外な人物伝】
「なせば成る なさねば成らぬ何事も 成らぬは人の なさぬなりけり」 (「やればできる。やらないと事は成せない。やれないのはその人がやれないのではなく、やらないからだ。」) と言ったのは、江戸時代中頃に財政破綻寸前の米沢藩を苦難の末に立て直した上杉鷹山(うえすぎようざん)ですが、意外な事にこの鷹山.....

都井岬の馬(2014年8月28日)【余談】
宮崎の観光名所のひとつ「都井岬」にはの野生馬が生息していることで有名ですが、これは秋月藩が軍馬育成のために放牧したものが野生化したものといわれています。 秋月氏は「藤原純友の乱」を平定した大蔵春実の血を引く家柄で、九州では武家御三家といわれた少弐・大友・島津氏よりも古い血筋になります。 戦国時代.....

藤原純友(893年~941年)【福岡人物伝】
瀬戸内海で海賊行為を行い暴れ回った藤原純友の軍は本拠地の伊予を朝廷軍に制圧されると、 筑紫に逃れ大宰府を襲い観世音寺で略奪を行います。 しかし博多湾で朝廷軍に破れ伊予に逃げ戻りますが、そこで捕らえられ獄死する事になります。 .....

大蔵春実(?~?)【福岡人物伝】
前漢高祖・劉邦、後漢光武帝・劉秀の血を受け継ぐといわれる人物で朝廷より「藤原純友の乱」の平定に派遣されます。 乱の平定後は大宰府南方の原田に屋敷を置き大宰大監(だざいだいかん)に就任します。その後、京都に戻りますが その地に残った子孫は地名の原田氏を名乗り筑紫の豪族となります。また江戸時代の米沢藩の.....


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福岡史伝…福岡の歴史をできる限り簡単にご紹介!

名所旧跡…メジャー観光地と観光バスは行かない隠れた旧跡

福岡人物伝…歴史は人が造る!福岡の歴史に登場した人々

意外な話…それってホント?意外すぎる話。

よくわかっていない事…歴史って考えれば考えるほど面白い!!

一夜漬け福岡史…時間がない忙しい人用のページ

福岡歴史年表…福岡2000年の歴史概要

名所旧跡フォトライブラリ…乱雑ですが写真集です

リンク…博物館、資料館、図書館へのリンクです。

余談…ひとり言的な話です

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はじめに…お願いと参考書

 
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名言・格言「黒板にちゅ~も~く!」
千丈の堤も螻蟻(ろうぎ)の穴を以って潰ゆ
韓非子





福岡史伝・戦国
 【北部九州戦国史】(戦国時代)

立花城のあった立花山
室町後半から戦国初期にかけては筑前を手中に収め、北部九州で勢力を拡大する大内氏と筑前守護を自負する少弐氏の抗争が激化します。少弐氏は苦戦を強いられ肥前に追われますが、配下の龍造寺氏の活躍でどうにか対面を保ちます。しかし、後に龍造寺氏と反目し、龍造寺氏は大内氏に組します。
ところが、1551年にはその大内氏が配下の陶氏に謀反され滅び、筑前には大友氏が勢力を伸ばします。

そして中国地方では陶氏を倒した毛利氏が台頭、大内氏の所領を継承し、1557年には貿易港・博多を取り戻すべく、筑前の中小の豪族へ反大友の動きを煽ります。これに呼応したのが秋月、筑紫の両氏ですが、大友氏に鎮圧され筑前を追われます。
また翌年の肥前では龍造寺氏が少弐氏を滅ぼし戦国大名として名乗りを上げます。

1564年、毛利氏は一旦、大友氏と和睦し、東に兵を向け石見の尼子氏を破ると、再び筑前の攻略に引き返します。筑前では毛利氏の支援で帰還した秋月氏、筑紫氏の他、原田氏、宗像氏、肥前の龍造寺氏が連携し大友氏へ抵抗します。また大友氏の内部からも高橋氏、立花氏などが反旗を翻し筑前は大混乱に陥ります。大友氏はこれに対し大軍を送ると共に大内氏残党を周防に上陸させ、尼子氏の残党を支援し後方を攪乱、毛利氏を筑前より撤退させます。
後ろ盾をなくした筑前の反乱勢力は大友氏に降伏、和議を行い混乱は収束します。そして、立花氏、高橋氏の頭主には大友氏の重臣・戸次氏、吉弘氏が据えられます。
大友氏は筑前が収まると次に肥前を抑えるために、兵を佐賀に向け龍造寺氏を包囲しますが、龍造寺配下の鍋島氏の夜間奇襲作戦(今山の戦い)で大混乱に陥り撤退を余儀なくされます。龍造寺氏はその勢いで勢力を広げ九州は大友、島津、龍造寺の三氏鼎立となります。

しかし、1578年には「耳川の戦い」で大友氏が島津氏に大敗するとこの均衡が崩れ、筑前では秋月氏、筑紫氏等が三度(みたび)大友に反乱を起こします。この混乱の隙を突き、筑後には龍造寺氏が攻め入り筑後の勢力を次々に配下に取り込みます。
ところが破竹の勢いで勢力を拡大した龍造寺氏ですが、1584年に「沖田畷の戦い」で北上して来た島津氏にあっけなく破れ、島津の配下に入ります。

1586年、島津軍の侵攻に抗す手立てをなくした大友宗麟は豊臣秀吉に謁見し援軍の依頼を行います。一方で、肥後、肥前、筑後の勢力を配下に入れ大軍となった島津軍は筑前攻略に取り掛かります。
筑前では秋月氏、原田氏等も島津に組し、直前に大友方に組した筑紫氏も島津に降伏、豊後の兵の救援もなく立花、高橋両氏は孤立します。そして高橋氏が守る岩屋城は島津軍の猛攻に落城。高橋氏、筑紫氏の兵が共同で守る宝満城も筑紫の兵の勧めで降伏します。次に島津軍は立花氏の立花城へ向かい攻撃を開始しますが、豊臣秀吉の意を受けた毛利軍の九州上陸を察知した島津軍は南に向けて撤退します。そして1587年には島津氏は降伏し、九州は豊臣秀吉によって平定される事となりました。









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スポットライト人物伝


【中岡慎太郎(なかおかしんたろう)】
(1838年~1867年)


土佐の志士で五卿に随い太宰府に入り、五卿の衛士として仕えながら薩長同盟を画策します。 そして1864年から約3年間、太宰府、長州、京都間を忙しく行き来し、 薩長の有力者や土佐の同士たちと面談、坂本龍馬と共に薩長同盟を実現させます。 しかし大政奉還から一ヶ月後、京都・近江屋で刺客に襲われ龍馬と共に暗殺されることになります。



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