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福岡史伝・戦国 【豊臣秀吉の筑前一夜城】(1587年) 夜になり古処山から益富城方面を臨むと、そこは見渡す限り秀吉軍のかがり火で満ち溢れ、翌日には城の建て替えも始まり時を置かずして完成します。また、秀吉の軍の馬には仮面が被せられておりその形相が龍蛇に見えたため兵士たちは「上方の軍馬は馬にあらず」と言い合ったといわれます。これらの事で秋月の将兵は戦意を消失し、種実は息女と天下の茶器「楢芝」を差出し降伏します。 この時の事を貝原益軒は「黒田家譜」に次のように記述しています。 「敵の気を奪はん為、暮に及てわざと嘉摩穂波の村々に、かがり火を多くたかせ給う。南は桑野より、北は飯塚の辺に及べり。秋月家人共、古処山の頂より東の方を見渡せば、秀吉公の軍兵両郡に充満して、諸軍の陣に燃す火は晴たる空の星のごとく、野も山も村里も皆軍兵とみえて夥(おびただ)し。夜明て古処の山上より大隈の城をみれば、一夜の中に見馴れぬ白壁出来腰板を打たれば、見る者驚きて神しょう(神のなせる業)のおもひをなせり。是は敵の目を驚かし、勇気をくじかせんために、播磨杉原の紙を以、夜中に城の壁をはらせ、民屋の戸板を集めて墨をぬり、腰板にさせ給けるなり。」 写真は益富城跡がある嘉麻市大隈町城山。大隈町では10月末から11月にかけて「一夜城祭り」が執り行なわれ、期間中、城山には益富城が出現しライトアップされています。 関連記事:益富城,一夜城,豊臣秀吉 |
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わかっていない事 【宇美町は不彌国?】-「日本書紀」の宇美町の地名由来- 「邪馬台国はどこ?」でも書いたように「魏志倭人伝」に記載されている「不彌(ふみ)国」は民家戸数比較や距離や方角からして 現在の宇美(うみ)町の可能性が高いのですが、「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という事を断定できない理由は宇美町に港がないということでした。 しかし、もう一つそれを否定するような記述が「日本書紀」にあるのです。 その内容は「朝鮮より帰還した神功皇后が筑紫で応神天皇を産んだが、人々はその場所を宇濔(うみ)と呼ぶようになった。」というものです。 もしこの事が事実であれば、「宇美」は神功皇后時代以後の呼び名となるわけで、神功皇后時代から100年ほど前の卑弥呼の時代の「不彌国」とは別ものになってしまうのです。何故なら卑弥呼の時代に「宇美(濔)」という呼び名は存在していないことになるからです。 「宇美(うみ)町=不彌(ふみ)国」という立場で考えると「日本書紀」の「宇美(濔)の由来」は真実か否か?神功皇后が応神天皇を産んだ以前に「宇美」は本当に存在しなかったのか?といった謎が深まるのですが、どちらにしても「魏志倭人伝」に記載されている奴国からの距離より「不彌国」が現在の福岡県内にあったのは間違いないようです。 この「不彌国」の所在地が判明するようなものが発見されれば、幻の邪馬台国へもう一歩近づけるのかもしれません。 |
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