旧ページは数ヶ月ほどで閉鎖いたします。これからも『福岡史伝』をよろしくお願いいたします。 |
福岡史伝・戦国 【高橋と筑紫の和約】(1586年) しかし1586年、大友宗麟の要請により豊臣秀吉が九州に派兵の動きをみせると、筑紫広門は一転、大友の将・高橋紹運と和解の道を選びます。紹運としては遺恨のある相手でしたが、破竹の勢いで北上する島津勢の面前に、味方の勢力が立ちはだかる事を考えると、他の選択はありえなかったのでしょう。 同年4月、両者は岩屋城で高橋家嫡男・統増と広門の娘の婚儀をとり行い、また重臣の子息をお互いに入れ替え、和んだ雰囲気の中、和議は整います。 これに驚いたのは秋月種実です。この厄介な同盟を島津へ知らせる使者を立て早期の侵攻を促します。 そして7月6日、島津の軍は筑後北部に現れ高良山(久留米市市街地の西部)に陣を敷き、8日には広門の城を激しく責めたため広門は降伏、囚われの身となり、島津軍の岩屋城攻めは時間の問題となります。 紹運は嫡男・統増と妻室、筑紫の家臣団、家中の足軽を要害の宝満城に籠もらせ、自らは居城を捨てるのを潔しとせず岩屋城で島津軍を迎え撃ち、壮絶な戦いを繰り広げた末に将兵たちと共に玉砕します。 その後、広門は秀吉の九州上陸で動揺する島津の兵の隙を突き、幽閉されていた筑後の大善寺を脱出し自領に帰り兵を挙げます。 高橋紹運と対照的な筑紫広門の一連の行動をどう受け止めるかは人それぞれでしょが、目前に迫る大きなリスクを背負いながらも、一世一代の大勝負に打って出て、自らの前途を切り開いた広門の生き様には紹運と違った意味で潔さを感ぜざるを得ません。 関連記事:紹運,広門 |
検索の結果 13件の記事が見つかりました
|
福岡史伝・幕末・維新 【平野國臣の倒幕活動】(1858~1864年)
それから約3年後の1862年4月に國臣は薩摩藩士と共に京都所司代襲撃を計画しますが、島津久光の命を受けた別の薩摩藩士に捕らえられ、福岡藩に引き渡されます。國臣は福岡で投獄されますが、そこでは筆を与えられなっかたためコヨリで文字を作り紙に貼り付け文章を書きます。これが「平野國臣紙撚文書」といわれるものです。 翌年の1863年3月には許され京都に上りますが「8月18日の政変」が起こり尊王派は京都から追われます。そこで10月に七卿の一人の沢宣嘉を擁し天領の生野で挙兵(生野の変)しますが主導部の意見が一致せず、あえなく失敗、捕縛され京都の六角獄へ投獄されます。 そして翌年7月に起こった「禁門の変」で京都には各地で火災が発生し、六角獄の近くまで延焼したため、囚人の脱走を恐れた幕府役人に処断され斬首されました。 子母沢寛氏の「新選組始末記」には、この時の生々しい状況が、牢獄内にあった村井正礼(まさのり)の手記「縲史」に記載されていることを紹介しています。 京都に戦火が広がり六角獄へも近づくと、獄舎は慌しくなり平野國臣等「生野の変」や「天誅組」の者たち、長州の志士が牢獄より引き出されます。牢獄内に残された村井正礼は何事かと様子を窺います。 「既ニシテ刑壇ニ声在り、動静啻(タダ)ナラズ、卒(タチマ)チ聞ク国臣(平野)ノ絶命ノ歌ヲ一過スルヲ、刀声に随(シタガ)ッテ断頭ノ響アリ、予キョ然タリ(私は言葉を無くしたの意)。」 「憂國十年 東走西駈 成敗天に在り 魂魄地に歸す」 この事件の翌日に天王山で真木和泉が自刃しており、筑前筑後の二大巨頭は時を同じくして壮絶な最後を遂げることとなりました。 |
|